父からの贈り物
小学生時代、父が作文集を毎年買ってきた。
小学館の『小学校二年生の作文』から始まり、学年が上がるごとにそれは三年生、四年生と続いた。コンクールで入選した作文を集めたもので、模範作文集といった感じである。
なぜ、父が毎年買ってくるのかよくわからなかった。今、推察してみると、読んだり書いたりすることが好きだった私に、もっとうまくなれということだったのかもしれない。 私はどちらかというと非現実的なファンタジーというか、おとぎ話のような夢物語を書いていたので写実的な作文集には少々面食らった。
しかも時代背景が違う。読んでいた頃は昭和四十年代の高度経済成長期になっていた。しかし、その作文集はもっと前に書かれたもので、戦後、まだまだ日本が貧しかった昭和三十年前後が舞台。農村部の話が多く、東京に住んでいた私には別世界のように思えた。
水道が初めて通った、家の中に初めて電燈が灯ったという話も多い。
こうなると写実的ではあっても物語のよう。
飼っている豚や馬の話も出てくる。私の周りには犬や猫しかいないから、スケールの大きさからして違う。鈴虫の観察日記なども実に生き生きと細かいところまで観察して書かれていた。自分で体験したことのない世界に惹かれていき、父が買ってきてくれるのが楽しみになっていった。だが、私は相変わらず、非現実的な夢物語を書いていた。実生活にあまり感動を感じていなかったのかもしれない。
二十歳で引っ越しをするとき、母が私の蔵書のほとんどを図書館に寄付してしまったため、作文集は手元からなくなった。
時は流れ、長かった昭和は終わり、平成、
令和となって私も還暦を過ぎた。
優しかった父も天国へ旅立ち、私に本を買ってくれる人などいない。
だが、父を思い出しているうちにあの作文集をどうしても読み返したくなった。父が何を伝えたかったのか、読み返せばヒントが見つかるかも。絶版になっていることはわかっている。
だめもとで、ネットオークションで検索してみた。時々、こういう古い本が出品されているから。
勘は当たり、当時の作文集三年生と四年生の古本を見つけ、手に入れた。
ああ、これだ。この話、この作文。覚えている。懐かしさでいっぱいになると共に、よく三年生や四年生にこんな生き生きとした作文が書けたものだと大人の目線で感動する。
毎日の生活が充実していたのだろう。
おばあちゃんの曲がった背中におじいちゃんがお灸をすえて、痛みを軽減しようとする話。、作者は熱がるおばあちゃんが可哀そうでたまらない。おばあちゃんを大好きなのが伝わる。馬車の時代が終わるので可愛がっていた馬を売らなければならなくなった話。馬がなかなか動こうとせず、いななく描写は切ない。でもみんな生活がかかっているのだ。
楽しい話もある。山へ木を伐りに出かけている両親のもとへ、授乳の時間になると弟をおぶって山へ連れていく。母ちゃんは必ず「山の神様からのごほうび」を用意して待ってくれている。そのごほうびは珍しいキノコだったり、お弁当の残り物だったりする。その残り物というのが梅干しやタクアンの色のついた部分のご飯で、味がしみている描写がいかにも美味しそうだった。
東京で生まれ育ち、水道も電燈もテレビも洗濯機も当たり前にあった私の生活はなんと生ぬるかったことだろう。
生活のために可愛がっていた動物を売らなければならない切なさも味わったことがない。
でも、東京でなければ、そういった現実は
今でもたくさんあるわけだ。都会というのは便利ではあるが、無機質な世界なのかもしれない。
そんな私に、たくましい農村部の昭和時代の作文は感動と生きる力を与えてくれた。こどもの時も、還暦を過ぎた今も。
欲も出てくる。こういうこどものような視点を大事にしながら作品を書いてみたい。
こども時代に父が買い与えてくれなければ、私はこういう世界を知ることもなかっただろう。
今回は自分の働いたお金で買ったけれど、やはり父からの贈り物と思って読んでいる。