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カテゴリ:家族
昨日は、その前日のことを思い出して、ずっと泣いていました。
この年になってなんであんなにいろいろ言われなくちゃならないんだろう。 私なんかいなくなったほうがいいのかな。 とにかくひたすら辛い感情と向き合ってました。 子どもを遊ばせていても気づくと涙ぐんだりして。 長女は、消灯してから私が嗚咽していたのを聞いて「どうしたの?」「がんばって。がんばれば大丈夫。」 なんて慰めてくれました。 夕飯時には、高校のときからの友人に電話して聞いてもらいました。 彼女は昔からの私の家族事情を全部知っていて、ただただ聞いてくれました。 この日記も今、久しぶりにパソコンを開けたのですが、皆さんコメントをありがとう。個人的にメールや電話をくれた方々もいて、一人で生きているんじゃないんだなあって感じました。うれしかったです。本当にありがとう。 泣き疲れて眠れず深夜帰宅した夫とも、いろいろ話をしました。(はじめはけんかから始まってしまったけど。) たくさん泣いて、夫にも抱きとめてもらってようやく落ち着いてきました。 母の話に出てきた事で、気になったこと。 私が親に長女を預けることがありますが、当然ながら「ありがとう。」は、なんども言っている。でもそれが伝わっていない。1回言い忘れたのをしつこく覚えていて、そこを攻めてくる。 一つ一つを報告されたがる→必要のないことは「また出かけて。」と小言をいわれるので言わない。 私が実家で夫とこそこそ話をしていて親とちゃんと話しをしない→家の業務連絡を話しているのでべつにこそこそはしていない。そういう気がしているだけだ。 なんかほとんど言いがかりのようなものだ。 この言葉の裏の意味を考えていくと、自分が提供すること(子どもを預かること)が多いのに、そのわりに自分が感謝されていない、心を打ち解けてくれていない、という寂しい気持ちがあるような気がする。 感謝の気持ちを伝えていく、自分の行動、考えを話していく、ことが必要なのでしょう。 感謝の気持ちも、ちゃんと伝わるよう、心を込めていってみよう。 自分の考えは話して行きたいけれど、私の親は、まず自分の家族が幸せならばそれでいい。という、とってもミクロな考え方なので(寄付などは絶対にしない、災害があっても人を助けたい気持ちはなく、自分の備えだけちゃんとするタイプ、安いものがとにかくすき、などなど)、私や夫の考える、周囲の人もともに幸せに、助け合って生きて生きたい、という考えをどのようにして伝えられるのか。食事のこと、医療のこと、環境のこと、人付き合いのこと・・いろいろある。そこら辺の課題を避けて通ることなく話していけるようになれればいいんだな。 でもまだ冷静になれない私。ちょっと時間がほしいです。 正直、言った母はとってもすっきりしたと思う。 今までたまっていたこを言えたのだから。 でもいわれたほうのダメージは半端なくきつかったのよ。 特に今は、不安定な心理状態であるからして。 そして、どうして、母や父のように、人を一方的に攻め続けるのか。 自分の立場だけまくし立てるのか? 考えたところ、思い当たることがあった。 2年前まで、父の母、わたしのおばあちゃんにあたる人が生きていた。 彼女は明治最後の生まれで、たくさん苦労したのだと思う。 でも割と負けず嫌いで、着付けの免許を取り仕事もしていたし、その当時には珍しく教育ママだった。明るく話し好き、の人だった。 私はそんなにそのおばあちゃんが嫌いではなかったのだけれど、父や嫁である母は苦労をした。口が立つので、何でも言いたい放題であるので、いやだなあと思うようなこともずけずけ言う、でもそのかわり明るかったので、いいことも言ったのだけれど。母は特に感情的になっていて苦しめられたようで今でもうらみごとを言っている。 父と母が二世帯住宅を立てて祖母夫婦も面倒を見るといったときも、断られて結局別世帯になった。(それは私と姉には幸運だったのかもしれないけど。)祖父が亡くなって15年余り、ひとりぐらしの祖母の面倒は全部みたのに、結局遺産相続では、人のいい父は他の姉弟に、でしゃばられてしまった。 そんなおばあちゃんにいろいろ毎日のように言われ続けたことが、残っているのだろう。 感覚が麻痺しているのか? 自分が正しいと思ったならば人には何を言ってもいいと思っているのか? わたしもあるときからほめられなくなった。たぶん公立高校受験に失敗したときからだな。 勉強できてあたりまえ、できないと糞味噌に言われる。学校卒業すると、いい会社に就職しないと。一人暮らしすると、転職すると、一人旅すると、いい年して結婚しないと・・・ とにかく昔から今まで、変わらない。自分がいいと思ったことを押し付ける。認めない。現実って受け入れてそこから一歩を踏み出すしかないのに・・・ おばあちゃんから受け継いだ負の連鎖を私の代で受け止めて終わりにしなければ。本当に強くそう思った。 子どもにわたしのようにこんな辛い思いはさせたくない。 子どもが自分で考えて決めたことにあれこれ口出しするような親にはなりたくないのだ。自分で決めたことは責任をもってやらせる。それでいいはずだ。 頭から押さえつけて可能性をふさぐ権利は親にはない。 夫はそれでも「おまえがそういう環境にあったからこそ、反骨精神で今までがんばってこれたんだよな。」と両親をフォローしていた。←いいひとだ。 確かに花屋に勤めていたとき、4店舗あるうちのなかで一番利益を出すことに成功したりもした。負けたくない思いが強かったからだ。 でもそういうのってとても疲れたのよ。 今は人と競争して1番になりたいわけでもない。 いろんな人とつながりながら内面を磨いてゆきたい。 そして私でしかできないものをいろいろな人に提供していければ・・・ そしてそんな私の姿を見て子供たちが頭を押さえつけられることなくやりたいことをみつけながら育って行ってくれれば・・・そこで負の連鎖も断ち切れると思う。 今回の事件を機にそう思った。 久々にお花の写真を入れます。アスクレピアス。かわいくって大好き。 長女の幼稚園に行く途中のおはな好きのアパート住人の育てた、鉢より。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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