本を探したり英語劇に憧れたり
仕事が乗らないのではやめに退社。ひさびさに本屋を放浪。アービングか重松清か保坂正康か。悩んだあげく結局五條瑛「ROMES06」(徳間文庫)を購入←全然違うし。展開はいいが(著者は元ぼーえー関係者だ。リアル)文章が雑。本にアンテナがなかなかひっかからない。乾いてるなー、とブツブツいう。感性が錆びているのか?錆びているとすれば原因はわかる。つい過去の経験フィルターを通して読もうとするからだ。目の前のモノに集中しろ。ただひたすら読め←なかなかできない。批評しなきゃいけないという強迫観念を捨てろ。編集者じゃあるまいし。金を払う以上みあった娯楽はほしい。だから厳しくなるのだ。わかっているんだが・・・。帰宅して家族そろって夕食。ムスメの真似をすると「真似しないでっ」と返ってくるようになった(「っ」がポイント)。すっかり4歳児だ。 リアクションが面白くてついいじってしまう。こんなとき父と同じことしてるよなあと思う。最近のブームは「~のとき、~したよねー」という「経験の確認」だ。日本語の練習なのか、家族の記憶の入力過程なのか。成長の一環であることはたしかだ。ちゃんと話をかえしてやる。いま話せないときは叱る。たぶんそれが栄養だ。教育方針といえば。先日、某女性ゴルファーの叔父が書いた早期教育の本を読んだ(ずばり●●●ネ式と姓を名乗っている。すげー自信)。幼稚園児のうちに読み書きと計算と英語劇をやらせるんだそうな。夫婦で読んでゲラゲラ・・・もとい、たいへん感心した(棒読み)。やはりいまのうちに英語劇だよ!というのが最近の合言葉だ(これまた棒読み)。 「体」は早めの刺激がいいと思うが、「知」は無理がある気がする。ぜひ追跡調査をしていただきたい。卒業生がどうなったかを。MITに入りまくっているとかそんな結果だったらどうしよう。いや、何も困らないけど。 能力開発をめざす教育法って最近の子供の命名センスに似ている。なにかしら無理無理に凄さをうたっているけど結果は似たりよったりだ。 普通の子供にします、という方針じゃだめなのかしらん? 美人ってのは、普通のパーツの集合体なんだけどな。(♂)