LABO!「A・R芥川龍之介素描」@日暮里d-倉庫
この苦境下に劇場にいる意味を考えてみる。 客席のほうがよほど演劇的ではないのか?などと演劇人みたいなことをいってみる。世間の目。健康不安。客席の不自然な距離。「愛の1センチ」という言葉は死語にしなきゃいけないんだろう。 そんなことを考えながら日暮里へと向かう。遠い。仕事だと通るのだが。たどりつけない不安を抱えながら住宅街をすすむ。場所のもつ意味を意識する。 日暮里における演劇とはなんだ。地元に根差した、とかそういう自治体からカネをむしりとるためのぬるいはったり幻想幻覚の話(さりげなく暴言)ではなく、日暮里で上演する意味とは? あのひあのときあのばしょできみと、なんて歌があったが演劇は一過性のモノである以上、そういう刹那への意識があってほしい。刹那を共有したい。 なぜいま、なぜそこで、なぜそのほんで、なぜそのひとでやるのか。 ちなみに劇場(日暮里d倉庫)そのものはとてもいい。高さといい空間といい劇場への入り方といい。異空間である。さて内容。芥川龍之介の作品創作をめぐる幻想と葛藤。如月小春のなかにあった創作への想いみたいなものもあったのだろう。そして時間への台詞がいまとなっては意味をもつような気がしている。たとえば「あれから~年」「時代が変わったんだ」みたいな台詞。 蜘蛛の糸からはじまる作品の群れ。そのなかでさまよいもがく芥川。そういう構成である。27年前に初演を観ている(関西でみたような)。そしてLABO!版も観ている。 身体能力の高さはわかるのだが全員の声の置き場所が安定していない。メソッドが統一されていない。もっと動画アプリのごとくつぎからつぎへモノガタリが浮かんでは消え去ってほしいのに場で留まっているような。 年齢?違う。むしろベテランのほうが声と身体のバランスに無理がない。 声の置き場であるとか、声の距離感であるとか。演劇が世界をたちあげるための方法が不安定だ。音楽性(演奏の話ではない)にムラがある。ここは気持ちいいのにここはばたついてるなあ、みたいなところだ。 地獄変のところはよかった。あったまってきたのかしらん? 戯曲に対しての思い入れが強すぎるのかもしれない。もっと無責任にやれ、というのは暴論かもしれないが、苦しむのは芥川だけでいい。それぞれのプロットの群れは暴風雨のごとく芥川にまつわりついたらいいのにと。幹と枝のバランスが悪い。肉体が台詞を超えろ。というのをにゅーのーまるとやらの条件でやるのは難しいのか。そしてそれを忖度する必要はあるのか。 家庭も、時代も、あるいは物語の構想そのものも彼にとってはノイズなのだ。わちゃわちゃとかがちゃがちゃしてほしい。かつてパフォーマンスなどということばがつかわれたような(いまそういう意味ではつかわないだろう)。これは戯曲ではない。もっと軽いものだ。あえていうなら設計図ではないのか。ふわふわとうかぶ独特のことば遊びはその証明だ。 もうひとつ、自分が年をとったせいかもしれないけれど。構図、みたいなものが透けてみえると冷静になってしまう自分がいて。この位置で少年少女が語るのだろうなあ、みたいな意地の悪い観客を裏切るような演出があるとよかったのではないか。 正直型がみえすぎだ。(♂)