LABO!「冬物語」@すみだパークシアター倉
2人の貴族の何気ない会話ではじまる静かな冒頭、船の玩具で遊ぶマミリアスの存在が話の不安定さを暗示する。「誓い」「羊」という台詞はなぜこうもこの物語の縛り(あるいは呪い)になるのだろう。ひとりの王、というより男の心に挿し込んだ疑念が周囲を戸惑わせ、世界を狂わせていく。 そんな「信」と「迷」の物語。 身体意識の高い俳優が演じることで疑念疑惑がふわふわとただよい続ける様が気持ちいい。黒い想いが、紙風船のようにあっちにいきこっちにいき、少しずつ空気を汚していく。 不穏だ。 王はまるで道化である(ほめてる)。想いを抱えるというよりは(迷惑なことに)ばらまく。そこから浄化にいく展開のなめらかさよ。 昔(1992?)シェイクスピアシアターの客演として演じていた若かりし吉田鋼太郎はパワフルに想いを抱えて演じていた←いまは演出なき(ぐぐった)劇団のメソッドにのっとったものだろうが、なめらかとはいえず妄想に取り憑かれ暴れる男はそれはそれで面白かった。 この劇団の演出にいつも感心するのが物理的な高低差はなくても政治的な社会的な高低差をつくれるところだ。高低差はなくとも空間があればできるのだ(メモ)。 女性の役がどれも魅力的なのは新たな発見であった←もしかしたら俳優の仕事か。 シェイクスピアの女の役ってつまらないの多くないですかね(暴言にしてなぜかどこぞの有名掲示板のひと口調)。 ハーマイオニーは名台詞だらけだなあ(なにをいまさら)! パーディタに可愛さよりは高貴さをまとわせたのは納得。羊飼いの中で異質でありつづけるリアリティーということなんだろう。 これを迷いの物語と捉えるのであれば、迷いのなさこそが女性の強さとして映えていた。 「時」の役は羊飼いかー。流れが自然。インタミ開けとしてふさわしい。 祝祭空間としての羊飼いパートの素晴らしさ。オートリカスの軽妙な、噺家のような、ときに福山雅治のような(?)台詞回しで肩の力を抜くことができた。 個人的にこの本を読んだときに非常に扱いに困った場面と役ではある。正直なにをやってるのかわからないのだ。 そうか、騒いで踊って歌えばいいんだ、というふっ切れた最適解を発見。曲も良かった(連れて行ったムスメも口ずさんでいた)。 それにしてもこの戯曲、やたらゲームチェンジャー(ストーリークラッシャー?)がでてくるのね(発見)。ネットミーム的にいうなら「話はきかせてもらった!」みたいなキャラが頻出する。だからこその空気の運びになるのだろう。 石像シーン直前の、噂を畳み掛ける場を現代演劇的にランダムにキャストそれぞれ語らせたのはかっこよかった(この劇団らしい)が、代償として石像場面のインパクトを弱らせた。 せっかくシェイクスピアが石像に関心を集中させるべくあえて流しているツクリだろうに。 それならば石像シーンもそのまま「現代演劇的に」解体したほうが良かったのでは? たとえば噂している紳士たちがそのまま本来演じていた役にもどるのを可視化する、とか←いかにも現代演劇という名の古典的手法だが。 最終場のハーマイオニーにはしばらくひとに会ってなければこういう喋りになるよね、という説得力はあったが計算されたぎこちなさが観る側としては受け止めづらかった。 だって物語だしと甘えてもよかったのでは?悩ましい個所ではある。 正直リアリティーを追求するとポーライナの行動原理にぶち当たるのだ。いったいなにやってんだこのおばさん💢? さきほど「ゲームチェンジャー」と書いたが、この話は支配者がだれか、という移り変わりでできているのだなと思うのがこの場面だ。ここではポーライナになるわけだがいったいなにやって(略)💢??? そこで便利な(万能な)論理の登場だ。 だって物語だし。 じゃあしょうがない。 カミロー&ポーライナの無理矢理カップリング台詞はカットか(笑)。 そんな雑念の数々が、なんだかんだとマミリアスで消えるラスト。気持ちが凪ぐのがとめられない。 控えめにいって傑作。 ケチをつけるなら(もうさんざんつけてますが)劇場の立地と椅子と客層(年齢高い←失礼)を考えたらこの上演時間(インタミあり180分)はありえないぞ制作?あと、チラシにクマが描かれているのはツボでした。(♂)追記 ちなみにこの作品、31 年前に演出しました(小声)冬物語警察とでもお呼びください(うるせえ)。