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カテゴリ:古代ギリシア
明けましておめでとうございます!2018年になり、もう正月3が日が終わってしまいましたが、皆様はどのようにお過ごしでしたでしょうか。私はと言えば、久しぶりに会った地元の友人たちと親睦を深める傍ら、実家でダラダラしながらも本の虫になっていました。笑
正月に読んでいたのは、書店で見つけた『オデュッセウスの記憶:古代ギリシアの境界をめぐる物語』(フランソワ・アルトーグ/著、葛西康徳・松本英実/訳)という書籍です。新品だと5000円を超える高めの本なのですが、中古で購入したため費用は半分程度に抑えることができました。 やはり、フラリと大型書店に立ち寄ると、思いも寄らなかった「収穫」がありますね。特にこれと言って購入する目的もなかったのですが、題名と表紙(イタケー島から望む地中海)に魅かれ即決!実家に持ってきてじっくりと読んでいました。 つまり、古代ギリシアを学ぶ者にとって自明の法則である「ギリシア人」とバルバロイの二項対立が、どのように形成され、変遷していくかにスポットが当てられています。古典最盛期を通して培われたこの二項対立は、古代ギリシア人の誇りと驕りが凝縮されている概念なだけに、非常に興味深い内容になっています。 オデュッセウスの時代には、まだその二項対立は存在せず、ギリシア人は「ギリシア人」ではなく、トロイア人もバルバロイではありません。考えてみれば、今日のような国民国家が存在しない古代において、「ギリシア人」たる概念が無いのはおかしいことではありません。むしろ、あそこまで「ギリシア人」であることが称揚されたことの方が異常であると言えるでしょう。ペルシア戦争という未曽有の危機に対する団結によって、ペルシア帝国とは決定的に異なり、なおかつ各ポリスとの共通点である「国制」が、地中海世界におけるギリシアの卓越性として、明確に打ち出されることになったのです。この「国制」こそ、ギリシア人がバルバロイ(ペルシア人)よりも優れている証左になりました。 この二項対立は、マケドニアとローマの出現によって揺らぎ、その形態を変えていきます。 ローマに関しては、強大なかの国を「ギリシア人」/バルバロイの関係にどう組み込むか、当時のギリシア人が苦慮した様子が非常に詳細に書かれており、読みごたえがありました。やはり、ローマをバルバロイと一蹴するにはあまりにも重すぎたようで、いかにギリシア人側に引き込むかに主眼が置かれていました。「ギリシア人」たる概念は、イソクラテスの思想をバネにし、その礎を「国制」から「知」へと飛躍させ、最終的にはアポロニオス的な普遍性に昇華します。ローマが全世界を支配しようとも、その世界を「知」っていたのはギリシア人であり、その古さに決して勝てないようにしたのです。エジプトが、かつてギリシアに対してそのように振舞ったのと同様に。(プラトンの術策によって、古さにおいてもエジプトはたちまち敗者になりましたが) これは、ローマに対するギリシアの優越・卓越性を決定付けました。『アエネーイス』を通じてヴェルギリウスが提案したローマ人のアイデンティティと重ね合わせると、ギリシア人の知がいかに強大な存在であったかが分かるでしょう。 このように、ローマに対しては充分に論じられているのですが、マケドニアに対するギリシア人の苦慮には、あまりページが割かれていません。二項対立を真っ先に揺るがした存在であるマケドニアは、ギリシア人の「境界」を語る上で欠かせないはずです。なぜなら、ギリシア語を話し、ヘラクレスの血統に連なるマケドニア人は、その他ギリシア人とは異なる国制「王政」を有していたからです。王政はペルシア帝国と同じ制度であり、自由のギリシア人とは縁のない国制、バルバロイの象徴とされていました。民族的にギリシア人ではありますが、「ギリシア人」ではない、そんな矛盾を孕んだ存在がマケドニア人なのです。 確かに、ペロポネソス戦争の消耗でギリシア人たちがポリスの脆弱性に気付いたことや、法に従う王のモデルで、バルバロイと「ギリシア人」の距離が縮まったことは事実でしょう。しかし、それだけで「ギリシア人」のマケドニアに対する苦慮が消え失せたとは考えにくいです。イソクラテスとデモステネスという、お互いに全く正反対なマケドニア観を語る弁論家もいるぐらいですから。アレクサンドロス大王も、ローマ時代から見た概念しか本書では語られませんし、この非ポリス的で神的な大王を当時のギリシア諸ポリスがどう「ギリシア人」側に位置付けたか(もしくはそうならなかったか)を詳細に論じてほしかったですね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.01.04 23:35:00
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