その昔。
毎日のように書く、UPするというのは習慣化していて今日はこのテーマで書くぞと意欲を持って臨んでいたのに、色々なことがあってそちらが優先された結果UPがおろそかに。でも書きたいと思えばいつでも書けるわけでその辺りは物書きに不向きなのだろうと思う。いや、発信したくともこんなことを書いて誰が見るのか、特に面白いわけでもなく、またやれ解釈が、風潮がと思えばま更に気持ちが奮い立たない。これは歳を取ったと言うことかと勝手に思う昨今。自由とはなんと難しいものか。
目の前に白紙を、いや今は画面に向かってああでもないこうでもないと、、、かの先人方も唸っていたのだろうか。
ふくとソクラテス
ソクラテスの日記と銘打ってブログを立ち上げ久しい。
このタイトルは猫を見ていると彼らは考えていない様で実はすべてを悟っているのではないかと思える節があって、その秘めた何かに問いかけていつまでも答えを探している自分自身と哲学者が重なり、愛猫の名を哲学者から頂戴し誕生した訳なのだが、私のソクラテスは生後1歳を迎える頃に交通事故で頭を強打し視力を失ってしまった。
室内飼いを提唱する背景にはこのような交通事故の防止や感染性の病気、喧嘩による怪我、更には近隣住民とのトラブル回避など複数の理由がある。彼から視界を奪ったのは車では無く私の不徳の致すところだと今でも彼に詫びることになったのだが、彼は初めて闇を経験し毛づくろいを1年以上しなかった。
一番輝いている時期に視力を失わせてしまったことは悔いても悔やみきれない。
また、轢いてしまったと認識したかどうか今となっては知る由も無いがドライバーにも不快な思いをさせてしまったに違いない。
彼のリハビリは先ず前足であらゆるものを触らせることから始まった。
視力以外は健常と診断されてからもなお動こうとしない彼の前足を掴んでトイレの砂、爪とぎ、飲み水、餌、他の猫、段差と毎日毎日触らせていた。やがてあちこちぶつかりながらも自らの意思で歩き回るようになったときには心から安堵したものである。
彼は前足を器用に動かし、障害物にも怯まず戦車のように進み、他の子にはできなかった重い抽斗を開けたり、また他の子を踏むこともあったが、それがもとで喧嘩になることも無かった。
他の子も彼の視力に問題があることを分かっていたのだと思う。
猫の握力をそれまでは特に意識することは無かったが、確実に彼の握る力は他の子よりも勝っていた。
彼は視力を失ったが握力を身に着けた。順応したのだ。
何という生命力だろう。
私なら何もできないと嘆く人生だったかもしれないのに。
彼は強かった。
そんな彼らに私は何ができるだろうと考えたとき、猫達が駆け回れるほど広い家を持つことは私の夢になり、十数年かかってしまったが彼はその家で晩年を過ごした。
ソクラテスは室内飼いの猫達と同様、平均寿命以上を全うした。
そんな彼らから学んだものもまた多かった。
4月27日は哲学の日。
彼が我が家に初めて来た日もこの頃だった。
ソクラテスと云う名のもう一つの由来である。