イクバルホテル
2000年1月22日アフリカとは言えナイロビの町には東アフリカの中心らしい活気と整然さがあった。そんな整然さは一介の旅行者にはどこか空々しく、入り込めない空気に寂しささえ感じてしまうものだ。昨日ナイロビに着いた僕は早速,受け取った彼女からの手紙の重さもあって、そんな空々しさを抜け出したい欲求にかられていた。朝起きると僕は荷物をまとめホテルをチェックインした。行き先はどこか?活気のあるところ人のいつところそして目的に近いところであるホテルを出た僕はすぐに目の前のタクシーを止めてダウンタウンまでと頼んだ。ここからダウンタウンまでは歩いていけない距離ではない。が治安のよくない街で荷物を背負っての移動はタクシー利用がセオリーだ。指を一本たてて「モジャ!」と交渉したが運転手は人差し指と親指をたてて「ンビリ!」と答えた。交渉をきらって言い値の200シリングで手を打った。ダウンタウンはナイロビのまさに下町と呼べる環境に位置し、適度な人混みと適度な排気ガスと過度の騒音が混在するところだった。ホテルイクバルはそんな下町の一角にある。イクバルの扉を開けると何もない空間にガードマンが立ってここに泊まりたい旨を伝えるとガードマンがさらに奥の扉を開けてくれる。その先の階段を上ったところにレセプションがある。つまりはセキュリティは下町にあって悪くない。レセプションで空いたベッドがあることを確認し210シリング(300円ほど)の宿代を払うと「じゃあ君は1号室ね」と案内される。もちろん部屋の鍵などは渡されない。1号室に入るとまだ昼間だということもあって5人定員の部屋には先客は一人だけだった。「こんちは」と日本語で挨拶すると僕は空いたベッドに適当にザックをおろした。ここはいわゆるドミトリー。つまり相部屋である。旅行者はわずか300円ほどの金の対価としてベッドひとつとその近辺の空間および共同シャワーと共同トイレを使用する権利を与えられるのだ。ユースホステルの下品なやつと想像すればよい。そこには旅行者同士のセキュリティはあまりないし、プライバシーは全くない。しかし何となく大部屋的合宿的な雰囲気がマッチしてこの手の宿は日本人の好みとなる。日本人が何となく好む宿は口コミで広がりいつしか日本人専用のような宿となってゆく。世界にはそんな日本人のたまり場として名をはせた宿が無数にある。たとえば、バラナシの久美子ハウス、たとえばプノンペンのキャピトルホテル、サンパウロのペンソン荒木、リマのペンソン西海、カイロのホテルサファリなどなど枚挙にいとまがない。ここイクバルもそのような日本人宿の一つであった。僕は実はこの手の宿を軽蔑し敬遠していたのである。人恋しさにそこに集まり、麻薬や娼婦におぼれそして次の一歩を踏み出す精力を失いながら日々そこに沈んでゆく日本人旅行にはたとえようもない頽廃のにおいがしたから。目的を持たずに世界を旅するものは必ずやどこかに沈む。もしかしたらどこかそんな安住の地を見つけることが彼らにとっての目的であるのかもしれない。しかし本当の意味での安住はそこに生活の基盤を移さないかぎり訪れるわけがない。だから多くの旅人がいずこの地にか惹かれ終いのすみかとまで思いながら、肝心のお金が無くなった時に始めてそれが幻想であると気が付くのである。しかし結局は僕もそんな日本人の一人であったのかもしれない。日本人から交通や治安についての情報を得たいということもあったし、何より同じ日本人の気安さからくる緊張感の緩和と治安の良さと、そして宿代の安さが僕をここに引きつけた。しかし本音の部分ではこのアフリカの片隅でひとりでいることの孤独に参っていたのかもしれなかった。午後の時間を下町の探索と、バスの時間の下調べなどについやしホテルに帰ってくると宿の住人がすでに帰ってきていた。隣のベッドにいた久野君という日本人とまずは意気投合した。ジャーナリストを目指す彼はアフリカの内戦をライフワークにして取材しているのだと言った。別の日本人は、エジプトから内戦のスーダンやエチオピアを自転車で走ってここまで来たと言った。息抜きできたので明日には南アフリカにむけてタンザニアに発つのだと自転車の手入れをしていた。また別の日本人はザイールからウガンダの道無き道をヒッチハイクで横断してきたと言った。2000年問題のことを聞いたら「もともと電気も水道も電話もないから関係ないのだ」と答えた。幸運だったのかもしれないがこの宿には頽廃の空気はなかった。むしろ周囲の人々の夢と旅への姿勢に励まされ、夢追う自分に納得がいく心地よさを感じていた。久々の日本語が心地よい。そして久々に夢を語り合うのが気持ちよい。遠い異国の地で今それぞれが夢を追い、その夢を手中にと行動してきた結果ここに集っている。そこに何がしかの不思議さを感じる夜であった。