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去年に続き今年もまた「塞翁が馬」の物語です。1961年3月10日「ビートルズを手放した男」初代マネージャーのアラン・ウィリアムズはビートルズとの最後の仕事だったようです。 2010年2月22日に80歳を迎えその翌日「リバプール・エコー」のインタビューを1957年にオープンしたジャカランダで受けていました。 彼は言います。 「わしはメモリーのミリオネア」 「ビートルズは自分たち自身の名声の奴隷」 ジョンは有名にならなかったら殺されなかったかもしれないし、次のマネージャーのエプスタインだってあんな死にかたはしなかったかもしれない。 リンゴ・スターは 「もうサインはしない」 と発表しなければならないほどファンにサインしなければならなかった。 アランはビートルズとの思い出が何よりの財産だと言いたいのです。 彼らのデビュー前の1960年から1961年、ビートルズがショービジネスが何なのかを学んだ重要なハンブルグのライブにも関わっていたのです。 「貧すれば鈍する」と言いますが、ハンブルグのライブに行った2回目のことです。 サトクリフがアランに電話で言いました。 「今回の仕事は2回目だからあんたにもうコミッションを払わないことになったとジョンが決めた。」と。 父親に見捨てられ母親には先立たれたジョンはお金が必要だったのでしょうか。 ハンブルグにまた行くことができて天狗になっていたのでしょうか。 だから1960年にオープンしたアランのクラブ「ブルー・エンジェル」から締め出されました。 アランはビートルズのマネージャーになる前のブライアンに言った。 「あのろくでなしどもに関わらん方がいいぞとね。だが同時にこうも言ったんだ。奴らはいいミュージシャンだとね。わしも少しは役に立ったかもな」 インタビューは続きます。 「わしはジョン・レノンに言ったことがある。おまえはどうせまともな仕事にはつけやしねえ、俺みたいになるのさ、はははーってね。」 アランが言ったことはほとんど当たっていると言ってもいいでしょう。 ビートルズ解散後ジョンはヨーコがいなかったらほとんどダメになっていたかもしれません。 しかしそれでも誰もビートルズがあれほど成功するとは予想できなかったようです。 その後、アランはロイヤル・コマンド・パフォーマンスを見て地団太を踏んだ。 ブルー・エンジェルを閉めだされたビートルズはエプスタインに相談したのでしょうか。 エプスタインはアランのところへ行き言いました。 「彼らはハンブルグであなたにしたことを心から反省してます。寛大な気持ちで彼らを許してやってもらえませんかね。」 リバプールでは有名だったであろうエプスタインから頼まれたアランが許さないわけはなかったでしょう。 ブライアンは答えました。 「いや実はですね。彼らは今外にいるんです。」 そして彼らは店に入ってきてアランに抱きつきました。 60年代の終わりごろアップルにアランが彼らを訪ねて行った時も同じように抱きついてきたそうです。 【メール便可】●西洋野菜の種 「パセリ ハンブルグ (ルート パセリ)」 日本の性教育、タヒチの売春ツアー、ハンブルグの飾り窓の女などなどトンデモ映画の決定版!「モンド映画」の生みの親、ヤコペッティ監督作品世界女族物語 LA DONNA NEL MONDO ビートルズ都市論 リヴァプール、ハンブルグ、ロンドン、東京 (幻冬舎新書) (新書) / 福屋利信 【送料無料】ジャカランダの街角から 【花木】【苗】お買得・高品質な苗木!【花木】【苗】【苗木】【植木】 ジャカランダミモシフォリア 1株 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2012年03月10日 20時42分06秒
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