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友達に本を貰って、久し振りに「読んだ」気分。
梨木果歩という人の本は「西の魔女が死んだ」というのを読んだ事がある。 この「家守綺譚」も、少し前の(と言っても百年ほど) 不可思議と自然とヒトの生活が共存した話。言葉や漢字が古くて、より一層、その世界へ引き込まれる。 子供の頃から、このてのお話が大好きやった。 長い間一人っ子で、家族が忙しく立ち働く小商売人の家で、一番の遊び友達は自分の想像力。 昔、家にあった「坪田譲治全集」の中で、ふと不思議な世界にはまり込むようなお話がお気に入り。 いつもの庭が、この踏み石の向こうが、手水鉢の陰が、ワタシの世界やった。 一人ではまり込んで、ぼぉ~~っとしてたな。 現実味の無い、それが私の原形ではないかな。 なのに、いつしか想像力は、現実世界の行く先を描くのに専属的に使われてるみたい・・・ ちょっと淋しい。 でも、大人になって、こういうものを読みたがると、現実逃避か? 私の中の月双子座は身近なお役立ち情報を すぐに探したくなって、考えてみる。 んんん・・・。想像力とは、自分の目や実体験を伴わない事柄を受容れる為の能力かもしれんな、と。 確かに、昔の日本人は(いや、世界の人も) 自分達には出来ないし理解できないモノも、「ま、そんなモノもあるやろ」もしくは「なんか、神さんが決めはったお役目があんねんやろ」と、自分達と交差するところでだけ、距離を保ちながら軽く会釈する程度で、関わるという知恵を持ってたんやろな。 それが、神であれ、霊であれ、河童であれ、物の怪であれ、隣人であれ、隣国であれ、他人種であれ、他民族であれ、他宗教であれ。 昔は自然が豊かで広い場所で、色んな者・モノが住んでも、其々で十分満足に食べて生きれたんやろう。 自分の生命が危うくなければ、大概は許せるはず、やったんやろな。 今は欲が命を上回るからな。 違う「綺譚」が日々メディアで垂れ流し。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2007.01.23 12:58:55
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