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カテゴリ:歴史秘話
今回のテーマは重いです。
『ヒロシマはどう記録されたか』というNHKの本を読んでいました。 NHKと中国新聞の半世紀に亘る原爆報道をまとめたものです。 1945年8月6日午前8時15分。 広島への原爆投下後の一部始終を克明に記録しており、その取材力に驚かされました。 で、本書で気になる箇所を見つけました。 『第十章 アメリカ兵捕虜の被爆』という項です。 昔、マンガ『はだしのゲン』を読んだ時、被爆した米国兵捕虜の死体に石を投げつける シーンがあって、ひどく印象に残っていました。原爆により一瞬にして家も家族も失っ てしまった被爆者たちが、恨みの気持を込め、死んだ米国兵に石を投げつける。 死んだ米国兵は、以前広島を爆撃しにやってきた爆撃機の搭乗員たちで、被爆当時は 捕虜として収容所生活を送っていた者たちでした。無実の広島市民とともに、彼らも 彼らと同じ米国人の手によって投下された原爆の犠牲者でした。 ただ、一体誰がこの行為を責められるというのかという気がします。 まさに戦争の悲劇を思わせるエピソードだと思ったものです。 過去20年あまりの間に、これら被爆した『外国人』についてのドキュメンタリーを 何度か見たことがあります。皆タイトルは忘れてしまいましたが、まず、当時広島・ 長崎の爆心地近くにいて被爆した朝鮮人たちのその後を追ったもの。 次に、被爆直後に広島の救援のために爆心地に入り、残留放射能によって被曝して しまった台湾出身の軍属たち。そして、広島・長崎の爆心地近くの捕虜収容所に収容 されていた連合軍捕虜について描いたもの。 日本は世界で唯一の被爆国と言われますが、被爆したのは日本人だけではなかった。 (もちろん原爆実験等での被爆者は他の国にも大勢います) いづれもその立場は一筋縄ではいかないものがあり、実に複雑な気分にさせられました。 祖国解放や戦争終結のために原爆が必要だった、と後で説明されても、被爆し、死んで いったこれら外国人たちは果たして受け入れることが出来たのであろうか。 その中でも、生き残り戦後日本を離れ祖国の土を踏んだこれら外国人被爆者たちが、 祖国で支援もなく差別され、『平和を齎した使者』と呼ばれた原爆の前に、 声を大にして語ることも憚られた、というのがとても印象に残りました。 (日本やそれぞれの政府はどんな支援をしたのでしょうか。 米国は何もしていないとは思いますが。) で、本書によると、被爆当時の広島には数万人の外国人がいたようです。 朝鮮・台湾出身者(彼らは当時『日本人』扱いでしたが)、中国・モンゴル・ 東南アジアからの留学生、ヨーロッパから来た宣教師、白系ロシア人亡命者、 そして、米国と中国の捕虜たち。 正確な数は分かりませんが、その多くも原爆の犠牲となったようです。 特に米国兵捕虜の立場は難しいものでした。 上記『はだしのゲン』のエピソードに似たこんな目撃談が載っていました。 (広島の原爆投下直後)午後一時頃、相生橋東詰め100メートルくらいの ところでうずくまっているアメリカ兵を見た。 まわりには十数個の石が投げられていた。 憲兵曹長が市民から危害を加えられる捕虜を保護するためそばに立っていた。 一瞬の間に二十万人もが殺された原爆への怒りを、このアメリカ兵が一身に 引き受けたといえよう。 原爆については様々に言及されているので、ここで改めて言うことではないかも 知れませんが、これは『無差別大量虐殺』に他ならない事実です。 大人も子どもも男も女も軍人も民間人も一閃光の前で等しく焼き殺されました。 もちろん日本人もそうでない者も。 避難する間も与えず、一瞬で全てを破壊し焼き尽くす兵器などそれまで存在しません でした。さらに放射能による悲劇はその後数十年経っても被爆者を苦しめ続けています。 思うのは、原爆を製造し投下した米国自体が、一体どれだけ被爆者へ 救いの手を差し伸べてきたのだろうかということです。 自国の若者まで原爆の犠牲にしているというのに・・・ 広島で被爆死した米国兵捕虜の多くは、撃墜された爆撃機B-24『ローンサム・ レディー号』の捕虜たちでした。(広島で被爆死した米兵は正確には10名とのことです) 7名が捕虜となり、東京へ送られた機長以外の6名は全て広島で被爆死しました。 しかし、この被爆死については、日本側は戦後間もなくの時期に米国側へ伝えていたにも かかわらず、米国側ではタブー視され、その遺族にはひた隠しにされていたそうです。 戦争を早期に終結させ、米国の若者だけでなく多くの日本人の命をも救ったといわれる 原爆投下。果たして本当にそうなのかという思いがします。 1995年、終戦50周年を記念してスミソニアン博物館で企画されたB-29『エノラ ・ゲイ』(広島へ原爆を投下した機体)の展示に際して、原爆の被害状況を伝える展示が 米国の議会や退役軍人などからの圧力で、結局実現しなかった話は有名です。 また、誰もが一度は見たことがあると思われる、原爆投下の瞬間を捉えたキノコ雲のモノ クロ映像を撮影したハロルド・アグニュー博士は、終戦60周年のTBS特番に出演 (筑紫哲也氏司会)し、被爆者の前でこう言い放ちました。 (原爆投下に対して)申し訳ないとは思わない。謝罪はしない。 こんな言葉がある。『リメンバー・パール・ハーバー』。 原爆投下を目の当たりにした人間が、被爆者に直接語った言葉です。 これらを見るにつけ、段々訳が分からなくなってきます。 『真珠湾』があったから原爆投下は正しかった。 このような形での復讐というものが正当化されて良いものなのか。 そもそも日本軍は真珠湾で原爆を使っていないのに。 あの被爆死した米国兵はどう捉えれば良いのでしょうか。 日本が原爆に対して行った『復讐』は、せいぜい被爆死した米国兵に石を投げただけ・・・ 一瞬の間に二十万人もが殺された原爆への怒りを、 このアメリカ兵が一身に引き受けたといえよう 核兵器の脅威。いまの日本人は良く知っていると思います。 報復の連鎖ではなく、和解と平和への道を。 二度とこのようなことの起こることのないように。二度と忘れることのないように。 8月6日、広島。8月9日、長崎。全ての原爆犠牲者に対して追悼の意を表します。 広島平和記念資料館バーチャル・ミュージアム HP 丸木美術館 HP 『原爆の図』 ↑こちらでは『米兵捕虜の図』の絵も見れます 蛇足・・・ 広島の原爆を描いた傑作マンガ『はだしのゲン』は、 今月10・11日に2夜連続での初のドラマ化となります。 フジテレビ HP 『ローンサム・レディー号』についてはこちらが詳しいです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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