偶然ですが、先日ちょうどいじめ問題について書いた後日、私の知人の
娘さんが、学校でひどいいじめに遭っていることが分かりました。
その娘さんは高校生なのですが、その内容を聞くと、もう本当に泣きたくなるぐらい
可哀相でひどいです。
びっくりするぐらい陰湿で、16、7歳ぐらいの子がやってるなんて思えないぐらい
手が込んでいて(たぶん悪質な大人が絡んでいるようなレベルです)、本当に
こんなにも、はらわたが煮えくり返ったのは何年ぶりだろう、というぐらい、
腹立たしくてしょうがありませんでした。
ここでは詳しくは書きませんが、はっきり言ってもう犯罪の域です。
学校の先生も全然頼りなくてダメで、お母さんはとうとう警察に駆け込みました。
私も、情報収集や法律的なことなど、ありとあらゆる経験と知人の知恵をお借りして、
なんとか力になりたいと思います。
子供の世界で起こっている問題なんかじゃない。
ここで大人たちがどれだけ本気で立ち上がるかが、試されているのだと思います。
私はこうゆう不正義が絶対に許せないのです!!
「心の空白」 「人間不信」 「無感動」 -
現代はそんな尋常(じんじょう)一様な言葉では到底、表現しきれない
深い深い精神の闇(やみ)が広がっている。
そして他人を陥(おとし)れ、他人の不幸を糧(かて)にしてまでも、
己(おのれ)ひとりの利益を得ようとする社会の現実。
何かが違う。
何かがおかしい。
だからこそ、人間主義の慈悲(じひ)が光らねばならない。
だれが何を言っても気にしてはいけない。
笑う者には笑わせておけばいい。
一生懸命やっている人間を笑う人間なんて、くだらない人間だ。
くだらない人間に、いくら笑われたって平気なはずだ。
「信念をもつ」ことである。
何が悪か、何が善か、わからない時代になってきた。
これは世界的傾向(けいこう)である。
このままでは、人類は混乱(こんらん)と退廃(たいはい)に向かう以外にない。
そのなかにあって、人間としての誇(ほこり)りある道を貫く、
『人の不幸のうえに自分の幸せを築くことはしない』、
そういう信念のある人が、必ず自他ともに幸福になっていく。
行動です。
一歩踏み出すことです。
目標に向かって大海原(おおうなばら)を泳ぐ前に、陸で臆病(おくびょう)に
なっているのではなく、かなたの目標に向かって行動すべきです。
行動を始めてからの反省は活(い)きるが、
始める前の観念(かんねん)的な反省は活きない。
-私の人生の師匠の言葉より