むかーし(?)、「授業中に先生が『指導する』のはよくない」「学び手である子どもの主体性を尊重し、楽しく活動をさせるのが良い授業である」「授業が楽しければ、その後は子どもが進んで学習するようになる」云々という(教員への)指導が主流であった時期がある。僕がまだ駆け出しだった頃の話だ。
びっくりしたのは、指導計画の方針を示した教授案、通常は「学習指導案」というのだが、これを「学習『活動』案」と書け、というご指導まであったことだ。学校の先生になるような人たちは生来真面目な人が多いから、おかしいなとは思っていたのだろうが「ご指導だから」とこれにしたがっていた。
だが、教員ではあるが、生来の臍曲がり、かつ、思考的不良少年(?)である僕は、その手の話を聞くたび我慢がならず、あちこちの研究会で異論を唱えた。当然、(控えめに言って)煙たがられ、当時の管理職に「他校の校長から校長会で「黙らせろ」と言われたよ」と苦笑混じりに告げられた。
さて、現在。「教師の指導力が問われる」「基礎・基本の徹底」云々声高に叫ぶのが、教育界の「主流」である。「学習『活動』案」など、どこを探しても見つからないし、「くり返し○○ワーク」と銘打った反復練習帳が売れるなど、十数年前を思うと隔世の感がある。だが、僕は相変わらず面白くない。
「指導から支援へ」へのキャッチフレーズ(これだって誰が言い出したのかは不明である。当時の文部省の文章にはこの語は一度も登場していないのだ)の元に行われた当時の教育は(これもまた控えめに言って)お世辞にも成功したとはいえない。現在はその反動として「学力向上」が国家的スローガンになっているかのような風潮があるが、これは、過去に失われたものが如何に大きかったかを表しているともいえる。だから、これを取り戻すために学校が必死になるのも当然である。
ここからが本題。当時の教育に携わった多くの先生たちは「上意下達」つまり、ご指導があったから、それにしたがって教育活動を行いました、という話をする。当然といえば当然であるが、自らのしてしまったことへの「申し訳ない」という気持ちはどれくらいもっているのだろう。文部科学大臣が、いわゆる「ゆとり教育」を受けた世代に対し謝罪をしたことからわかるように、あの時代の歴史的位置づけは既に済んでいる。僕も含めて、あの時代に教壇に立った先生たちは失政に手を貸したわけだ。これに対しては、前述のように大臣が謝罪しているのだから、一教員が当時の教え子たちにいちいち謝る必要はない。でも、どうも気持ちに整理がつかないのは、「学習『活動』案」を積極的に広めることに手を貸した人たち、つまり、あの当時の研究主任とか学習指導主任クラスの教員たちが学校教育の中枢になり、当時と180°違うことを後輩たちに指導している点である。
くり返しになるが、彼らに責任をとれというのは酷であるし、彼らなしで今日の学校運営が成り立たないのは火を見るより明らかなので、職を去れ、とか腹を切れ、等と言うつもりは毛頭ない。僕だって同類と言われれば同類である。ただ、当時について頬被りをし続けるのはいかがなものだろうか。教員として、当時なぜあの流れに抗えなかったのか、あるいは積極的に関与したのか、その結果、何を失い、何を学んだのかを先輩たちから学びたいと思う。
太平洋戦争末期、海軍兵学校の入試及び授業から英語をなくそうという動きがあった。陸軍士官学校が授業で英語を廃し、入試からも外したために、優秀な人材がそちらに流れるのを危惧する教官たちの提案であった。会議の結果は英語の教官を除きこれに賛成であった。だが、校長であった井上成美中将は「英語を知らぬ海軍士官がどこにいる」「外国語の一つも学ぼうとしない者は、海軍の方からお断りである」と校長の独断でこれを排した。
井上校長は、終戦後「戦争が終わった後、日本の復興に役立つ人間を育てたいというのがその真意であった」と述懐したそうだが、教え子にしてみるとこれほどありがたいことはなかったろう。教育者たるもの、こういう信念を持ちたいものである、と思わされる話である。
なお、井上中将(後に大将)は、戦争責任から最も遠い位置にあったにもかかわらず、自らの責任を痛感、戦後一切の公職に就かず、限られた場にしか姿を現さなかったため、「沈黙の提督」と呼ばれる。責任をとるための「沈黙」もあれば、違った「沈黙」もあるということだろうか。