今日は知多半島のミドリシジミについての調査結果をまとめてみようと思います。蝶に興味を持って55年、昔はまさかゼフィルスの仲間、しかもミドリシジミが自宅の近くにいるとは思ってもみませんでした。初めて知多半島のミドリシジミの話を聞いたのは2009年、Jun T.君とルーミスを見に行った時でした。阿久比町にミドリシジミがいますよという話を聞いて、何度か通い、休耕田のハンノキ林で卵を見つけ、シーズンには成虫も確認しました。その後、ハンノキ林を探し歩き、卵そして成虫をいろいろな場所で確認することが出来ました。ハンノキ林を探すにはよく似たヤシャブシとの区別が一目でつく1月~2月に探すのがベストです。
ミドリシジミ―ハンノキ分布 posted by (C)ドクターT
知多半島のミドリシジミを語るにはまず知多半島の地形と水行政の歴史について理解する必要があります。知多半島には高い山がなく、標高の一番高いところでも30mくらいです。東日本大震災クラスの津波がもし来たら(内海ですので、まずそんな高い津波は来ないと思いますが、・・・。)知多半島はすべて水没してしまいます。知多半島の農業は主に稲作とミカン作りでしたが、高い山も大きな川もないために、昔から農業用水には苦労していて、多くの溜池が作られました。1947年に知多半島は大干ばつに襲われて、溜池だけでは農業用水は不足することがわかり、木曽川水系からの水を引く計画が持ち上がりました。1955年に愛知用水公団が設立され、1957年に着工、1961年に完成しました。建設に際して56名の殉職者が出ると言う難工事でした。その工事については2002年にプロジェクトX~挑戦者たち~で取り上げられました。昔、家の水は井戸水でまかなわれていて、あまりよい井戸ではなかったので、風呂の水は濁っているのが当たり前でした。小学校5年の時に愛知用水の水が水道から出るようになり、透明な水のお風呂に初めて入った時は感動しました。しかし、1970年代に入ると、日本の農業政策は転換して、コメ作りからもの作りへと変わりました。家にも小さな田圃を人に貸していましたが、作る人がなくなり返ってきてコメ作りなど出来る訳もなく、国から減反保障(米を作らずに遊ばせておく田圃に対する補償)が出たこともあって休耕田となりました。知多半島全体でそのようなことが起こり、溜池周りだけでなく休耕田となった場所の多くでハンノキ林が形成されました。
ともあれ、知多半島の知多市から南(北の方は調査していません)はハンノキ林がいたるところにあり、そのほとんどの場所でミドリシジミが生息していることが判りました。