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>>その一 から読む カン、カン、カン、と鉄の階段をのぼるヒールの音が聞こえた。 キッチンのミニ・コンポに、モンクのCDを入れて、再生ボタンを押した。 ほぼいつもの時間どおりに、ドアが開き、袖が透けているグレーのロング丈のTシャツに、黒いスキニーのパンツ、首には金のネックレスを下げた、マミーが帰ってきた。 キッチンに溢れるコーヒーのにおいと、モンクのピアノの音色に、マミーは満足そうに、グロスを塗り過ぎた唇の端を上げた。 「おうちに帰ると生き返った心地がするわね、マイ・ボーイ」 マミーは僕を抱きしめた。 「一人で寂しくなかったかしら」 「大丈夫だよ、マミー」 マミーは早足に、自分の部屋に入っていった。 僕はカップにマミーの分だけコーヒーを注いだ。 しばらくして、白いTシャツとジーンズに着替えたマミーが、キッチンに戻ってきた。 マミーは優雅に、ブロンズの後ろ髪をたくし上げ、僕が椅子を引くのを待って、腰をおろした。 コーヒーの香りを嗅ぐ。 また裕司の母親の、金切り声が聞こえた。 「相変わらず、品のないサル一家ね」 マミーはコーヒーを、一口すすった。 「いっそ傷害罪で捕まればいいのに」 僕は返事をしなかった。 遅番の日、マミーは、夕食を介護職場で、利用者と一緒に済ませて帰ってくる。 だから、日勤の日のように、ランチ・ボックスを洗う必要がない。 「サルは進化しないものね。 あそこの子ザルは、今でも顔に痣をつけて、学校へ通ってるの?」 「コーヒー、おかわりは?」 「ありがとう、いただくわ」 マミーのカップに、ジャグのコーヒーを注ぐ。 さっき叩き潰したゴキブリの翅を、僕は思い出した。 「明日は夜勤ね。朝のうちに恭ちゃんのパンツを買っておかなきゃ。みんなゴムが緩んでるものね」 ついコーヒーをこぼしてしまった。 「いいよ、自分で買うから」 「あら、あなたのパンツは、ベビーの時から、ずっとマミーが決めてるのよ。 大丈夫。前にデパートで、これを買おうって決めたのがあるから。 子どもらしくて、伸縮性もあって、清潔よ」 テーブルを拭いた。 布巾と、空になったジャグを洗おうと、僕は流し台に立った。 「あなたはそこらの不潔なサルの子じゃないもの。 東海岸の子どもにふさわしいパンツじゃないと」 スポンジに泡を立てる。 行ったこともない「東海岸」よりも、「不潔」という言葉にひっかかる。 僕が小学五年生だった、春のことだ。 アパートの階段の軒に、ツバメが巣を作った。 ヒナが孵り、親ツバメが虫を運んでヒナに与える様子を、僕は楽しみに観察したものだ。 ところがある日、マミーが柄の長いモップを持ってきて、巣をヒナごと、叩き落としてしまった。 「だって、糞をしたら不潔でしょう?」 それ以来のことだ。 マミーの「不潔」という言葉を聞くと、まだ羽毛の生えない、肉色の翼を弱々しく打ちながら、コンクリートの上で弱っていくツバメのヒナを、連想するようになったのは。 気付くと、マミーがそばに立っていた。 空になったカップを置いて、うしろから、マミーは僕の肩を抱きしめた。 ぞっと泡肌が立った。 マミーのブロンズの髪が、僕の首から胸のあたりにまで垂れた。 「あなたは、マミーの言うことを聞いていれば、それでいいの。 あなたがどんなにキュートなベビーだったか、担任の若い英語教師、山本だったかしら? まともなロマンスの一つも経験してない、あんなサルに、わかるはずがないもの。 恭ちゃん、あなたはいつまでも、マミーのスイート・ベビーよ」 ふいに、大声を出したい衝動にかられた。 テーブルをひっくり返し、食器棚を倒し、狂人のように暴れて、マミーの顔を蒼白にしてやりたくなった。 大きく息をして、僕は、マミーの手に、手を重ねた。 「わかってるよ、マミー」 クリックをお願いします↑ お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2018.11.29 22:46:58
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