|
カテゴリ:日替わり日記
桜花今そ盛りと人は言へど我は寂しも 君としあらねば 大伴池主 意 桜の花は今まさに盛りと人はいうけれど、私は寂しいのです。あなたと一緒でないので…。 桜のたよりが聞かれる頃、突然に忘れていた光景がよみがえることがある。 ぼくの通った高校は当時、高遠城跡にあった。その学校も校舎移転にともない現在は高遠公園の一部となっている。 公園の裏手から東、月蔵山に向かって、かつての武家屋敷跡があった。 どんな用事だったのかも忘れたが、父の使いで訪れた家の記憶がある。江戸の面影をのこす古い家で、佇まいには妖気さえ感じた。 玄関先から声をかけると、帯戸の奥から女性が現れた。 その人は、二十代後半だろうか、夢二の絵から抜け出てきたかのように、すこし腺病質で切れながの眼が印象的だった。 ぼくは、おずおずと用件を伝えた。 はじめて会った人なのに、瞬間的に好意を抱いてしまったのだろう。用件を伝えながら、ほのかに顔が赤らんでいたのを忘れられない。 ぎこちないぼくの仕草を感じとったのだろうか、その人は微笑みながら言った。 「庭から見る花がきれいですよ。ちょっと見ていきませんか。」 言われるままに庭に回ると、珍しい種類の水仙が幾つも花を咲かせていた。 「ここに座ってね」 と縁側を指さすと、お茶と饅頭を盆に乗せ持ってきた。 言われるままに縁側に腰を下ろすと、目の前に公園の桜がひろがっていた。 そのとき、三峰川のある方角から「サァー」っと風が吹きあがった。小さな蝶が、無数に飛び立つように桜吹雪としてわきあがり、その一部がに庭先に舞い散ってきた。 「わぁ、きれいでしょう」 その人は同意を求めるように、その光景に眼を向けた。 僕は、その横顔を盗み見た。スラリと伸びた白い喉、そして髪の脇から見えるうなじ付近が美しく、天女が舞い降り、隣に座ったかのような錯覚に陥った。饅頭を小さく口に入れると、それは至福の甘みだった。この時間を、一分、一秒でもそこにとどめたかった。 どのように話したらいいのかもわからぬまま、ぼくはじっとピンクに霞む空のほうを見つめてから、思い切って言った。 「公園の桜がこんなにきれいに見えるところはほかにないです。毎年こんな景色を見られるなんていいですね。」 その人は、しばらく黙っていたが、ふっと笑みを浮かべて呟くようにいった。 「そう、きれいでしょ。でも、私が見られるのは今年だけかも知れない…。」 「えっ、今年だけ?」 「…………。」 会話はそこで途切れ、それ以上聞いてはいけないような沈黙に身をかたくした。 花びらは、つぎつぎに庭先にに舞い降り、あたりは白く敷き詰められていった。 数年後、その家の辺りを通りがかってみたが、屋敷跡は無くなり、更地だけとなっていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2024.05.05 16:13:31
コメント(0) | コメントを書く |