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僕は朝の仕込みを終えると店を義父たちに任せ、スマホと充電器をデイパックに入れて駅へと向かった。6月29日、目的地は東京首相官邸前。
思えば僕の生活はすっかり変わってしまった。あの東日本大震災から…ではない。震災では宮城県とはいえこの辺りはほとんど被害はなく、停電こそ何日も続いたが、水道はすぐに開通したし、沿岸部とは違い食べ物にも困らなかった。ひどい行列に並んだのも2回だけ。1度は息子のオムツを確保するためにドラッグストアに朝から並んだ。それでも開店1時間前から並んで先頭から4人目。不安な心にラジオから流れるジャニス・ジョップリンが染みたのを憶えている。見知らぬ若い夫婦はロウソクを買い損ねた僕に譲ってくれた。ひどい災害だけど人の優しさにも触れられたと単純に喜んだりもした。もう一つはご多聞にもれずガソリンだった。いつも行く小さなスタンドに大行列ができていて1台10リットルずつということだったのだが、おやじさんは僕の顔を見て20入れてくれた。「あんたはウチのお客さんだから」という言葉がありがたかった。 やがてロウソクの灯りの中、ラジオから福島の原発が危ないとの声が聞こえてきた。不安を感じたが「まさか」という気持ちも強かった。若い頃は社会活動に興味を持ち、原発反対の署名にも協力したし広瀬隆の本も読んでいた。だから宮城県女川に原発があるのは少し気にはしていたが、いつしか生活に埋没し意識の外に置くようになっていた。この辺りは北西の風が多いというのを知っていたのも安心材料だったかもしれない。それでも一度事が起ればとどこかで心配していたのも確かだった。 当時の総理大臣の国民への呼びかけがラジオで放送されたのと、福島の原発が水蒸気爆発を起こしたというニュースとどちらが先だったのだろう。首相の声を薄明かりの中で家族と聴きながら、昔の怪獣映画かパニック映画のワンシーンを思い浮かべていたのと、事故のニュースを聴いたのと前後関係の記憶が定かではない。ただ、眠れない深夜イヤホンでただならぬ事になっている事を聴いたのは憶えている。 それからの事は多くの東北の人と同じだろう。「事故は大した事はない」「直ちに影響はない」という官房長官の会見を見て安堵していた。そう、見ていたのだ。義父の家にはソーラーがあり停電中も日中ならテレビが見られた。それはともかく、今にして思えばあの時点で車に乗って逃げるべきだったのかもしれない。念のためでも。まだ「信じて」いたのだ。 避難しなかったのにはもう一つ理由があった。震災三日目から店を開けたのだ。店に残っていたカップラーメンやお菓子、そしてプロパンガスが無事だったのでガスで焼く焼き菓子、揚げ物を売った。ボランティア精神も幾らかあったのだろうが、在庫を腐らせないという効果もあった。義父を疑うわけではないが。商品は飛ぶように売れた。人々は温かい食べ物に餓えていて、それ以上に心の不安を食べ物で癒していたのかもしれない。不本意ながら一人限定何個まで、という事もしなければならなかった。そうしなければ、並んでいるお客さんがパニック的に注文数を増やしていくからだ。人の心の弱さも見せてもらった気がする。 やがて電気が通じ、あのポポポポーンのCMを見なくなる頃、僕の生活は元に戻っていった。原発の事故などなかったかのように。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2013.06.07 18:01:23
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