アベノミクスと偶像崇拝
イスラム教では偶像を拝むことを禁じているそうです。たぶん本来のイスラムの教えと何らかのモノを拝むことは相入れないということなんでしょう。もともと人っていうのは何でもかんでも拝んだり崇めたりお願いするのが好きな生き物で、太陽や月に始まり、大木、巨岩、山、滝、そして熊、鷲等々とにかくしめ縄を張ってしまって拝んでたんです。
仏教も最初は釈迦のすこぶる内省的というか自己啓発的な精神論だったはずなんです。ところが諸行無常だの色即是空を理解するよりは、仏像を作って拝んじゃった方が分かりやすいし大衆受けもしたということなんでしょう。大勢の人の心を救うためには必要かつ有効な方法だったのでしょう。イスラムだって偉大な指導者が出るとでっかい額に入れて飾ったりしますからね。あれだって偶像と言えば偶像だと思うのですが。
額と言えばあそことあそことの国なんですが、それについは後で触れます。
さて、岩でも木でも一度しめ縄を張って拝んじゃうと神聖なモノになってしまいます。子供はともかく、大の大人がその上に登ったり落書きしたりはできなくなるわけです。誰に咎められるというわけでもなく、キカイダーの良心回路みたいなのが埋め込まれていて、神聖なモノを汚すと気持ちが悪いわけです。昔はよく電信柱や板塀の下の方に鳥居が書いてありました。あれは何も電信柱を拝めってわけじゃなくて立ち小便除けだったんですね。鳥居という神聖なモノが書いてあるだけで、何となく汚したくなくなるわけです。考えた人はエライです。
東日本大震災以降、最も手垢にまみれた日本語といえば「絆」という言葉でしょう。「絆」ってさえつければ何でも許される、強要できるようになってしまいました。後で言われたような語源はともかく、最初は震災直後の「みんなで助け合いたい」「力を合わせたい」という純粋な気持ちから生まれた、というか選ばれた言葉だったのでしょう。だからみんな受け入れた。でもいつしかこの「絆」という言葉にはしめ縄が張られてしまったんです。言葉の偶像化が起こった。「絆」という言葉を穢すのはけしからん、何となく嫌だというモノになってしまった。
そうすると今度は電信柱の鳥居みたいに、批判されると困る事柄に「絆」という護符を貼る人達が現れました。言うまでもなく政府や政治家達です。「絆」の名の下に放射能を含んだ瓦礫は拡散され、「絆」の名の下に汚染された食べ物が作られ食べさせられている。次にしめ縄が張られたのが「復興のシンボル」という言葉だと僕は思ってます。この名の下に今度は放射能汚染が心配されるのも無視して農漁業が再開され、飲食店が再建されています。まさに言葉の偶像崇拝が勧められているのです。
「アベノミクス」「異次元緩和」を一言で言ってしまえば「霊感商法」でしょう。絆も復興のシンボルも少なくとも最初は実態がありました。助け合おう、立ち上がろうという実態があって言葉が生まれました。それを為政者が利用したわけです。ところがアベノミクスや異次元緩和には、そもそも実態がないところに産まれています。産まれたというより、誰かが机に向かって考え出した。そこら辺に転がっている壺に絵の具を塗ったくってしめ縄を張って「信じなさい、信じる者は救われる」って言ってるのと同じです。もちろん詐欺ですから少しだけ良い思いをさせておいて、後からがっぽりふんだくるつもりです。そして祭壇を作り派手に呪文を唱えてそれらしく見せているのがマスメディアなのはご推察の通りです。
これからもアベノミクスや異次元緩和の後をついで次々としめ縄が張られ、偶像が作られていくのでしょう。鎌倉時代、戦乱と天災、飢饉、疫病に見舞われ人々が不安でいっぱいになった時代、日本仏教の主な宗祖が現れています。現代もそうなのでしょう。ただ今現在、有効に機能している宗教はそう多くはありません。真に人々を思い救おうとする宗教を見つけられない。だから、カルトや霊感商法、マスメディアに簡単に騙されてしまうのでしょう。心に偶像を作ることなく冷静に物事を見ていく必要があると思います。
そういう意味でもう一つ、あえて苦言を呈したいことがあります。それはヒーローの存在です。反原発運動にあって様々な影響力の高い人達が登場しています。山本氏、小出氏、こころ氏、千葉氏、反原連、さらには各地のリーダー格の人もいるでしょう。これらの人や団体を本人の意図とは別に偶像化してしまってないでしょうか。偶像化してしまえば批判が許されない。全部受け入れるか、打ち壊すかです。人民軍と共に戦った毛沢東や金日成も偶像とされ額に飾られてしまえば、ご存知のようになります。レーニンの像だって引き倒されました。偶像化してしまうと「信じるか、信じないか」の二元論に陥ってしまうからです。ある種宗教的になってしまうので冷静な議論ができなくなってしまうのです。だから最後まで人間として付き合わないといけないと思います。彼らの話す一つ一つの内容や行動が大事なのであって、彼らを偶像として祭り上げて拝んではいけない。ちゃんと自分で考え、行動するしかない。ネットでの論争を見ているとそんなことを考えたりするわけです。