誰も知らない私の悩み
Nobody knows the trouble I've seen Nobody knows my sorrow Nobody knows the trouble I've seen Glory hallelujah!誰も知らない私の悩み誰も知らない私の悲痛誰も知らない私の悩みそんな私の悩みを栄光なる主よ貴方だけが、ご存知です主に栄光あれSometimes I'm up, sometimes I'm down Oh, yes, Lord Sometimes I'm almost to the ground Oh, yes, Lord時に明るく 時には沈みそうです主よ時には地に伏したかのように・・・そうです主よIf you get there before I do Oh, yes, Lord Tell all-a my friends I'm coming to HEAVEN! Oh, yes, Lordもし私より先にそこに着いたのならそうです主よ友達に伝えておくれ私もすぐに其処へ行くからとそうです主よ貴方だけがご存知です私の深い深い苦しみを・・・・http://www.youtube.com/watch?v=SVKKRzemX_wアームストロングが生まれ育ったのは、ニューオーリンズのアフリカ系アメリカ人が多く住む比較的貧しい居住区であった。子供の頃に祭りで浮かれ、ピストルを発砲して少年院に送られた。その少年院のブラスバンドでコルネットを演奏することになったのが、楽器との最初の出会いとなった。その後、町のパレードなどで演奏するようになり人気者となる。1930年代にはヨーロッパ・ツアーも行う。第二次世界大戦時には慰問公演も行った。しかし人種差別が法的に認められていた当時のアメリカでは、公演先でも白人と同じホテルへ泊まれない他、劇場の入り口さえ別々というような差別を受け続けた。1932年にビクター専属となり、1939年からデッカで録音が行われた。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%82%A4%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0サッチモで忘れられない佳曲「Nobody knows the trouble I've seen」戯れに歌詞を乱暴に自己解釈してみた。一部黒人からは、白人に媚を売るのか?と罵られ。白人社会からは、厳然と差別を受け続け。そんな悲痛な引き裂かれた人格を彼がどう保っていたか?そんなことを考える。在日であることをカミングアウトした。にしきのあきらが、かつて、こんなことを言っていた。「俺たちが居なけりゃ紅白なんて成たたない」と・・・こういった状況の中で一番悲痛な生を歩んだのが力道山や松田優作では、なかったか?などと愚考する。在日で被爆者であった張本勲もまた・・・・被爆者であることを、ずっと隠していた日本文化、伝統と呼ばれる多くのものが、被差別の民によって創造されてきた。日本文化の粋などと称される、枯山水の庭などを筆頭に・・・欧米社会におけるユダヤ人の莫大な創造と影響力も同じことが言える。マルクス、フロイト、ニーチェ、アインシュタイン、20世紀の音楽で言えば、ボブディラン1人あげれば十分だろう。ナチズム吹き荒れる時代を生きたユダヤ人シモーヌ・ヴェイユは、苦しみについて以下のように述べる。「私は、自分の苦しみが有益であるからというので、それを愛するのではいけない。 苦しみが「存在する」から、愛するのでなければならない。人間の構造。誰でも苦しんでいる人は、自分の苦しみを知らせたいとつとめる─他人につらく当たったり、同情をそそったりすることによって─それは、苦しみを減らすためであり、事実、そうすることによって、苦しみを減らせる。ずっと低いところにいる人、誰も憐れんでくれず、誰にもつらく当たる権限をもたない人の場合(子供がないとか、愛してくれる人がいないとかして)その苦しみは、自分の中に残って、自分を毒する。それは、重力のように圧倒的にのしかかる。どうして、そこから解き放たれるだろうか。重力のようなものから、どうして、解き放たれるだろうか。つらく苦しいことを受け入れること。 受け入れたことがつらさに跳ね返って、つらさを減らすというのではいけない。そうでないと、受け入れるということの力と純粋さが、それに応じて減ってしまう。 受け入れの目的は、つらく苦しいことをつらく苦しいこととして受け取るのであって、それ以外のことではない。これらの事柄─無数の恐ろしい、苦しみの事柄─には、何かしら償いになるものが含まれているからというので受け入れるのではなく、その事柄自体を受け入れること。それらは存在するからというだけで、それらが存在することを認めること。苦しみがなくならないようにとか、苦しみが少なくなるようにとか求めないこと。そうではなく、苦しみによって損なわれないようにと求めること。キリスト教の何よりも偉大な点は、苦しみに対して超自然的な癒しを求めようとせず、むしろ苦しみを超自然的に活かす道を求めているところにある。」これらは、間違いなく我々人類にとって大きな大きな課題なのだ。全てを肯定すること。否定しないこと。これが人間にとって如何に苦難の道であるかどうしたら到達できるのか?答えは、苦しみや悩みの中にある。誰も知らない私の悩みの中に・・・・・そこに至る道が、過酷な生を全肯定した例外的な人々によって示される。様々な形で・・・(-∧-)合掌・・・