日本人の原風景
なまよみの 甲斐の国 うち寄する 駿河の国と こちごちの 国のみ中ゆ 出で立てる 富士の高嶺は 天雲も い行きはばかり 飛ぶ鳥も 飛びも上らず 燃ゆる火を 雪もち消ち 降る雪を 火もち消ちつつ 日の本の 大和の国の 鎮めとも 座す神かも 駿河なる 富士の高嶺は 見れど飽かぬかもと万葉集にある。この歌の意味は・・・・飛ぶ鳥も飛びも上らずに集約される。以下貼り付け。宝永大噴火(ほうえいだいふんか)とは、江戸時代中期の1707年(宝永4年)に起きた富士山の噴火である。現在の御殿場市から小山町(御厨地方)は最大3mに達する降下軽石(噴火初期)、降下スコリア(中期から後期)に覆われた。家屋や倉庫は倒壊または焼失し、食料の蓄えが無くなった。田畑は『焼け砂』(スコリアや火山灰など)に覆われ耕作不可能になり、用水路も埋まって水の供給が絶たれ、被災地は深刻な飢饉に陥った。当時の領主・小田原藩は被災地への食料供給などの対策を実施したが、藩のレベルでは十分な救済ができないことは明らかであった。そこで藩主・大久保忠増は江戸幕府に救済を願い出た。幕府はこれを受け入れ周辺一体を一時的に幕府直轄領とし、伊奈忠順を災害対策の責任者に任じた。また被災地復興の基金として、全国の大名領や天領に対し強制的な献金(石高100石に対し金2両)の拠出を命じ、被災地救済の財源とした。しかし集められた40万両のうち被災地救済に当てられたのは16万両で、残りは幕府の財政に流用された。御厨地方の生産性はなかなか改善せず、約80年後の天明3年(1783年)には低い生産性に加えて天明の大飢饉が加わり、「御厨一揆」が起こった。宝永地震との関係 この噴火は日本最大級の地震の直後に発生している。地震の前まで富士山の火山活動は比較的穏やかであったことが知られているが、大地震の49日後に大規模な噴火が始まった。地震の震源域となった南海トラフを東北に延長すると、駿河湾を通って、富士山西麗の活断層富士川河口断層帯と連続している。宝永地震の翌日には富士宮付近を震源とする大きな余震が発生した。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9D%E6%B0%B8%E5%A4%A7%E5%99%B4%E7%81%AB#.E8.A2.AB.E7.81.BD.E5.9C.B0.E3.81.AE.E7.8A.B6.E6.B3.81約10万年前まで、小御岳火山 富士山の周辺一帯は数百万年前から火山活動が活発であったことが知られている。その中で約70万年前、現在の富士山の位置に小御岳火山(こみたけ)が活動を始めた。その頃は南東にある愛鷹山(あしたかやま)の活動も活発で、ふたつの大きな活火山が並んでいた。現在この火山の頭部が富士山北斜面5合目(標高2,300m)の小御岳付近に露頭している。 約10万年から約5000年前まで、 古富士火山 小御岳火山がしばらく休止した後、約10万年前から新たな活動時期に入った。この時期を古富士火山と呼ぶ。古富士火山は爆発的な噴火が特徴で、大量のスコリア・火山灰や溶岩を噴出し、標高3,000mに達する大きな山体を形成していった。古富士火山の山体は宝永山周辺など富士山中腹にかなり認められる。約11,000年前に噴火の形態が大きく変わり、その後約2,000年間は断続的に大量の溶岩を流出させた。富士山の溶岩は玄武岩質で流動性が良く遠くまで流れる傾向がある。この時期に噴火した溶岩は最大40kmも流れており、南側に流下した溶岩は駿河湾に達しており、長距離を流れた日本の代表的な溶岩流である。 氷河期と泥流 富士山周辺の調査では、古富士火山の時代には火山泥流が頻発したことが判明している。当時は氷河期で、もっとも寒冷化した時期には富士山における雪線(夏季にも雪が消えない地帯の境界)は標高2,500m付近にあり、それより高所には万年雪または氷河が存在したと推定されている。山頂周辺の噴火による火山噴出物が雪や氷を溶かして大量の泥流を発生させたと推定されている。 関東ローム層 東京周辺には、関東ローム層と呼ばれる褐色の細かい砂質の土が広がっている。これは古富士火山から飛んできた火山灰が主体の土である。同時期には箱根山も大量の火山灰を大規模に噴出させていたが、箱根の火山灰は白っぽく、古富士火山の火山灰は褐色なので見分けがつく。 溶岩主体に移行 約11,000年前に噴火の形態が大きく変わり、その後約2,000年間は断続的に大量の溶岩を流出させた。富士山の溶岩は玄武岩質で流動性が良く遠くまで流れる傾向がある。この時期に噴火した溶岩は最大40kmも流れており、南側に流下した溶岩は駿河湾に達している。長距離を流れた代表的な溶岩流を示す。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1%E3%81%AE%E5%99%B4%E7%81%AB%E5%8F%B2昭和の記録だけをあたっても我が国は地震が多い。自殺の名所である青木が原が富士山の噴火で出来たなどと見ていると思い当たるふしがある。日ノ本は、火の元とも読めてしまう。僕は、日本人の心性の奥に深いあきらめや悲しみや孤独を見る。次と次と起こる出来事を水に流し忘れる。それが天災であれ人災であれ・・・・畏れ敬い祀る。この心性が、アジア最速の近代化や自己破壊的な戦争へ駆り立てたような気がしてならない。ちょんまげからざんぎり頭へ天皇の赤子から民主主義の子へ日本人の順応性や主体性の無さは圧倒的な自然の驚異から来るのかもしれない。そんな気持ちで山部赤人などを眺めると日本人の原風景が垣間見える。天地の分れし時ゆ 神さびて 高く貴き駿河なる 富士の高嶺を 天の原 振り放(さ)けみれば 渡る日の 影も隠らひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行(ゆ)きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語り告げ言い継ぎ行(ゆ)かむ 富士の高嶺は 田子の浦ゆ うち出(い)でてみれば 真白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける (-∧-)合掌・・・