裁判員制度は時期早尚
大ベストセラー『国家の品格』について昨日の日記に書いたが、この本の中で特に私も以前から感じていたのと同じことが述べられている箇所があった。それは、「国民は永遠に成熟しない」から、「『成熟した判断が出来る国民』という民主主義の暗黙の前提は、永遠に成り立たない」ということだ。私がこのことを強く感じたのは、今政府が司法制度改革の一環として推し進めている、『裁判員制度』が話題に上ったときだ。この制度はアメリカの『陪審員制度』をモチーフに、裁判の場に民間人を導入して、一般人の感覚を判決に反映させるようにしようという狙いで、考案されたものだと理解している。それほど現在のさまざまな判決が、一般人の感覚とかけ離れたものなのかと言われれば、別にそういう訳でもないとは思うのだが、司法の世界だけで生きてきたガチガチのアタマばかりを突き合わせているのは、健全だとは言えないとでも思われたんだろうか。なにはともあれ法律は成立したんだから、どのみちこの仕組みはスタートすることになる。会社員が裁判員になったら会社は休ませてくれるのか、という細かなレベルから始まっていろいろな疑問が投げかけられているが、私がもっとも心配するのは、果たして「裁判員」たる「一般人」に的確な判断を下すだけの素養があるのだろうかということだ。はっきり言って今の一般的な日本人を見る限り、アメリカあたりの国民に比べると成熟度はきわめて低いと思う。自分の意見をはっきり言えない、白黒をなかなかつけられない、すぐにまわりに踊らされる........みんながみんなそうだとは思わないが、周りを見るとそういった人々ばかりだ(私も含めて)。それに「一般人の感覚」といえば聞こえは良いが、そういった成熟度の低い国民の感覚というのは、得てしてマスコミによって形成されていることが多い。とかくマスコミの論調に流されやすいのが、今の日本人だ。マスコミを利用した世論の誘導なんてことも、まことしやかに言われているご時世だ、裁判員となる方とてマスコミの洗脳を受けていないとも限らない。特にマスコミが騒ぎ立てるような重大な裁判の場合、権力の側にいる方がマスコミを通じて世論誘導し、間接的に裁判員の判断に介入するということも出来なくはないだろう。そのような状況においても、しっかりと「自己」をキープできる人が一体どれくらいいるのだろうか?私とてそういう立場に立ったとしたら、はっきり言って自信は無い。ひょっとしたら近い将来、“裁判はマスコミを握った方が勝ち”などということが公然とした事実になることも考えられるんじゃないかな?そんなとんでもない事態にならないためにも、当面のところ裁判は特別な訓練を受けたエキスパートたちに任せざるを得ないのではないか、と思うのである。とにかく理念には共感するが、いかにも時期早尚だ。