東京オリンピック
東京オリンピック開催が、正式に決まった。しかしお祭り騒ぎさながらのメディアを横目に、私は複雑な気持ちを抑えきれなかった。正直なところ、私は今回の立候補には懐疑的であった。もともと、同じ都市が何度もやるものではない、という私なりの原則論もあったし、そもそも言い出しっぺの石原慎太郎氏が生理的に受け付けない、というのも理由のひとつではあった。しかしそれらは所詮他愛もない反対理由であり、まったくフェアな目で見た場合、東京でオリンピックを開催するのを反対すること自体に、さほど説得力のある理由があるわけではない。要は、今がその時では無いのではないか、ということだ。周知のように今の日本は、未曽有の大災害を受けて右往左往している最中だ。そんな中だからこそ、人々に夢を持ってもらいたい、そして経済的な起爆剤にしたい、という気持ちは痛いほど分かるつもりだ。ただ現段階では、見切り発車に過ぎないと思う。前回の東京オリンピックも、ある意味戦後復興の象徴だったのかもしれない。ただ、その開催が決まったのは、今のシステムと同じく7年前だとすると1957年、戦後12年の時点だ。もちろん私は未だこの世に生を受けてはいないが、ある程度の復興は果たされ、高度成長期に差し掛かった時期ではないかと思う。右肩上がりの経済をバックに、今後日本が世界の中でどのような位置を占めるのかを思い描きながら、日々その準備に明け暮れたことだろう。そのあたりが今のこの時代とは決定的に違う。確かに震災でダメージを被った日本を元気にする、というのはお題目としてそれなりの説得力はあるかもしれないが、今は高度成長期ではないから、1964と同じ方向を向くことはできないはずだ。今まずやらなければいけないのは、震災後の「総括」だろう。総括と言っても、それは単に福島の放射能のこととか、被災地のがれき処理のこととか、そういった具体的な課題だけではない。今回の震災を我々がどう位置づけ、これからの社会をどういう風に思い描いていくか、そういう根本にかかわることだと思う。それを考える中で、どうしてもオリンピックが必要だというなら、それはそれでいいだろう。ただオリンピック推進派が、皆が皆そこまで思い描いているとは、到底思えない。オリンピックを開催することによる直接的な経済効果、それが日本経済に及ぼす好循環、その程度で止まっている人も多いのではないか。今は高度成長期でもないし、限られたエネルギー資源を何とかやりくりしていかなければいけないというご時世である。そんな中で新しい社会の在り方というものを模索していく必要があるのではないか。エネルギーの利用方法ひとつとっても、様々な議論がなされなければおかしい。そんな状況の中でオリンピックを開催する意義があるかと言われれば、やっぱり時期尚早と答えざるを得ない。と、なんだかんだと、聞きようによってはネガティブなことばかり言ってやがるな、と思われるかもしれないが、私もそこまでわがままではない。とにかく決まったことは決まったのだ。今さら返上できるわけもないし、失敗に終わらせるわけにもいかない。中にはこの期に及んで、いまだに開催決定に関してなんだかんだと文句を垂れてる人がいるが、いくら現状での開催に反対だからと言っても、足を引っ張るなんてのはもってのほかだ。何とか成功裏に終わらせるために、私なりに考えていかなければいけないと思う。もちろんその一方で、オリンピックにかこつけて暴走する輩がいないか、とか、税金が不当に使われていないか、といったようなことにも、しっかりと監視の目を向けて行かなければいけないと思うが。