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「個々次々に生まれては死滅して行く我々生命の個体は実は《DNAの乗り物》に過ぎない」という理論が脚光を浴び、大騒ぎになったのはいつのことだったろ
うか。ちょっと気になって《DNAの乗り物》をグーグルで検索してみたが、新しいデータが上位にはなかったので、この理論の現状はどういう進展を見せてい るのかは私にはわからなかった。気にかかったのはどこかにあった「遺伝子が利己的だから我々個体も利己的で当然だ」という文面である。個々の生死にのみ 拘っている限り「利己」「排他」からの脱却は凡そ望むべくもないから、この「自己への拘泥」=「利己からの脱却」こそが「未来」や「子孫の繁栄」への期待 と熱望、或いは「宗教」や「神話」へと我々を一気に駆り立てる動機付けになっているとするものである。更に言えば、我が国は今近隣のロシアとも韓国とも中 国とも『領土問題』を抱え込んでいる現況であるが、『国家』なるものが『利己的個人の集合体』に過ぎないものであるとしたならば、「『領土問題の平和的解 決』などということが一体可能なことだろうか?」という疑いもまた容易に醸成されて来るのである。歴史は「領土は力のある方が取る」ものであることを示し ているからである。個体の視点から世界を見る限り、我々は偶然この世に生を受け、或る日必然的に死んで行く。「死期を悟る」ことは個々可能であるとして も、自分が死ぬ瞬間を自分で決めることは自殺以外には不可能である。文学で言えば『死霊』の主人公・三輪与志は病床の兄高志に向かって「人間が自分の意思 で出来ることは昔から二つしかありません」と断言して「自殺」と「子供を生まない」ことの二つを挙げている。作者の埴谷雄高は私生活でも夫人に何度も堕胎 を強要し、夫人からはその度に「それなら何故あなたは私をお貰いになったのですか?」と詰られ続けたものだと生前自分で述懐していた。埴谷は「自分は亡き 妻に対しては終始暴君=スターリニストとして振舞った」のだと自認していたのである。・・というわけで、世間は恒例『お盆休みの一斉休暇=民族大移動』の 真っ只中であるから、私も人間の生死について少しだけ考えてみた。 --- On Sun, 2011/8/14, > wrote: お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2011年08月14日 15時15分57秒
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