虎馬
親とのトラウマ(?)についてなので、ちょっと重苦しいことを書いています。心にひっかかっていたと思うことが、最近つかめるようになってきたので…。ちゃんと前を向いて進むためにも、自分と決着をつけたいって思って、でも決着は付きませんでした^^;とりとめのないまま、書いています・・・。親に対する鬱屈というのは、だいたい誰にでもあることだと思います。だけど、「みんなあること、よくあることなんだから」とはいえ、苦しみが軽くなるわけでもないと思うのです。私は器用貧乏らしく、言われたことはだいたいできるほうでした。弟がいるのですが、彼はいうなればできない子でした。私はできる子に分類されていたので、できないことに対して叱られ、できることに対しては当たり前と思われて育ちました。弟はできない子に分類されていたので、できたときに褒められ、できないことに対しては当たり前という感じで育てられてました。私はほめてもらいたくて、色々とがんばったときがあります。だけど、綺麗に作品を作っても、成績がよくなっても、「これに慢心したらいけない」「維持することが大切だ」といったような言葉が必ずついていました。手放しで褒められたことは、あったのかもしれませんが記憶にはありません。できるんだからやりなさい、と言われます。できないこともちゃんとやりなさい、と言われます。それは今では、信頼されていることでもあると、認識することができるようになりました。だけれども、それは信頼ではなくて、都合がいいから、使い勝手がいいからとしか感じられませんでした。なぜなら、よく「心配だから」とあれやこれや口を出されたからです。私にとって心配というのは、その人を信じていないからすることであり、本当に信頼していたら、ああだこうだ言わずに、「お願いね」で済むと思っているからです。そんな風に、色々なことがどうしても納得できなかったのです。できない方が、弟のほうが、できるようになるためにがんばってやらなきゃいけないのではないの?どうして私ばっかりやらなきゃいけないの?できるからとはいえ、好きじゃないことをやらされるというのは、できるほうが損をしてるんじゃない?できたって、感謝も、褒められもしないのに。そういう気持もずっと、心に残っていました。いまでも残っています。きれいに払拭できたなんていえません。学生時代は、学級委員をよくやりました。いまとなって思えば、先生に褒められるのが嬉しかったからだと思います。だけど、褒められるのが嬉しいのですが、褒められたことが少なかったので褒められるとすごく謙遜したり、否定したりしてました。特に「いい人」「優しい人」「しっかりしている」などの言葉には、反感さえもっていました。私はたくさん悪い面を持っているから、いい人じゃない。打算もあるから優しいわけじゃない。もろいところだってあるからしっかりなんてしていない。いまは、悪いところもあるけれど、いいところもあるんだって、だいぶ受け入れられるようになりました。素直に受け止めることができるだけ、自分を肯定することができるようになりました。でもときどき、このマイナスの芽がひょこっとでてくるのです。両親、とくに母親は、おひとよしなタイプです。よく「人にいいように使われる」といいます。「ずる賢い人たちがうまく言葉を使って自分をいいように使う。でもなんとも思わないし自分はそんなことはしない」というようなことを言います。どうしてもそれが、「自分はそんな悪いことはしない、私っていい人~」と言っているように感じられます。本当になんとも思っていないのなら気付きさえしないし、口にも出さないだろうと思う私は、腹が立ってしまうのです。そして、口達者な私もその「ずる賢い悪い人」に分類されているのだと感じます。人として駄目なところもたくさんある私としては、とても心が揺れます。やっぱり私は悪い子なんだ、と。我ながら、もういい年をして、親のせいにするのも、親に依存するのもどうかと思います。断ち切りたいけれど、なかなかそれができない。私は両親が好きです。大好きです。だからこそ、受け入れてもらえない、信じてもらえていないということがこんなにも苦しく感じるんだと思います。そして、ありのままで受け入れられている弟を見ていると、憎しみさえ感じてしまいます。そこから飛躍して、こんな私が他の誰かにも受け入れてもらえることなんてない、とつなげてしまって、落ち込んでしまいます。我ながら子供だなぁって思います。しっかり立てるようになりたい。普段は前を向いてがんばろうって気持ちになるけれど、情緒不安定なこんなときは、揺れ動いてまだまだだなぁと思い知らされます。うーんうーん、暗いお話でごめんなさい。ここまで読んでくれた方、ありがとうございました。