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2004.01.23
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カテゴリ:東京観光
一口に和菓子といっても、練り切りを始め羊羹、饅頭など種類は豊富ですが、そのルーツは四つあるといわれています。

 一つは、古来から食の中心をなしてきた米からつくられる餅や団子、そして木の実、果物。もう一つは遣唐使が唐から持ち帰った唐菓子。これは、もち米やうるち米、麦などをこねたり、大豆、小豆に塩を少しいれて油で揚げたものです。

 そして鎌倉時代になって中国から禅僧の留学僧がもたらした点心。いわばお茶を飲みながら楽しんだ間食ですが、これが転じて茶の湯の菓子になっていきました。

 さらに室町から安土桃山時代にかけてポルトガル、スペイン、オランダとの貿易で輸入されたカステラ、ポーロ、金平糖などの菓子です。これらが相互に影響しあって、日本独特の菓子を生み出していったのです。

 私たちがいわゆる和菓子と呼んでいるものの多くは、江戸時代に完成されました。とくに茶道文化の中心だった京都では、茶道の発達とともに、菓子も趣向を凝らして優美典雅な姿をつくり上げました。なかでも、宮中御用を許された菓子司の高級菓子は、当時の貴族たちの間でもてはやされたと言われます。

 茶の湯とともに発達した菓子は、あくまでもお茶をおいしく飲むためのもの。利休の「夏はいかにも涼しきやうに、冬はいかにも暖かきやうに」という言葉は、菓子にも通じるものとして捉えられ、季節感を先取りして形や色に写し、また素材の味や香りをも生かしたものでしたから、ただ甘いばかりではありませんでした。

 食べてしまうのが惜しいような、絵画や彫刻とも並ぶ芸術品のような和菓子が出来上がったのは大正時代になってからといわれます。繊細な技を駆使して、美意識を集約した和菓子。日本独特の文化といえるでしょう。

 もともと菓子は、神社仏閣の神饌(しんせん)やお供えとして使われることが多かったのですが、それが江戸時代になると庶民の間にも広まりました。宮廷や将軍家の行事が庶民の間でも行われるようになると同時に、菓子も広まり、春秋のおはぎ(ぼた餅)、雛祭りの桜餅、端午の節句のちまきや柏餅なども、一般に広まり、今日まで定着しています。季節感を大事にする感性と、折節の行事がみごとにマッチしてきました。

 江戸時代には、庶民の間でふだんでも菓子を食べる習慣が広まります。茶店の道中菓子や門前菓子、今川焼き、飴売りなども現れて、すべての人が、いつでも菓子を楽しむようになったのもこの頃です。

 日本人は喜びにつけ哀しみにつけ、その時々の気持ちを和菓子で表してきました。七五三には千歳飴、出産、宮参り、誕生祝いには鶴の子餅や紅白の饅頭、結婚式には特別の意匠を凝らした和菓子、上棟式には祝いの投げ餅、葬式や法事にも饅頭を配る習慣があり、喜びや哀しみを分け合ってきました。

 ちょっとしたお茶の時間から、人生の節目節目の行事、年中行事まで、日本人は和菓子を楽しみ、いつくしんできたのです。





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最終更新日  2016.10.11 12:25:44
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