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テーマ:急性骨髄性白血病(411)
カテゴリ:カテゴリ未分類
昨年4月2日に異常が見つかり、翌日に緊急入院し『急性骨髄性白血病』と診断。
当時70歳。 抗癌剤治療1回目の頃、71歳を迎える。 8ヶ月の個室での抗癌剤治療により、寛解・地固めも終わり、12月に退院。 主治医からは「もう大丈夫」と太鼓判を押され、晴れやかな気持ちで退院。 その時に「M2」という事も分かった。 それから2週間後。 退院初の外来。 退院の前々日に採取した骨髄の検査結果が出る日でもあった。 医師の口から出た『再発』の言葉。 寛解導入時もなかなか効かなかったから。 やっぱり抗癌剤、効かなかったのか。。。 再発したらもう治る見込みは無いと、4月に入院する時の説明で聞いていた。 父は治ってしまった、白血病細胞は無くなってしまったと信じている。 父の性格をよく知っている家族は、本人に告知する事を拒絶した。 「最後の正月になる」 そう医師から告げられていた家族。 正確には、全て医師から母に告げられた事を、母から聞いて知ったのだけど。 なるべく普通に。 でも、最後だから…という特別な正月だった。 林業で鍛えた体は衰えてもスゴイ。 私より十分に力がある。 冬だったから、雪の中、灯油のタンクも運んでた。 そして1月中旬。 体調悪化。 多分、極度の貧血だったんだろう。 起き上がる事も出来なくなり、救急車で病院へ。 まだ雪も降って、道路は凍結でとても怖い頃だった。 その時の入院は大部屋。 個室は楽だが精神的に辛い。 大部屋の方が気が紛れるからだ。 2月中旬頃から容態悪化。 全身が痛くなって歩くことも出来なくなった。 もうすぐ弟の結婚式があるのに、出席出来ないのだろうか。 そう心配していると、主治医と看護師が頑張ってくれた。 結婚式に出られるようにとの配慮。 大量の輸血と痛み止め。 結婚式前日、自宅に帰りたがっていた父を子供と一緒に迎えに行った。 すると、母から話しを聞いていたのが嘘のように元気に。 主治医もビックリ! 病院から帰宅途中に行き着けの床屋に寄り、綺麗に散髪。 結婚式の準備もバッチリ。 式当日も朝から調子が良く、お吸い物など口にしていた。 式場では車椅子での出席だったけど、主治医に許可を貰ったからと嬉しそうにビールを飲んだり。 乾杯の時にはシャンパンも一口。 コース料理も半分くらいは食べてた。 私より食べたんじゃないかな。 それから暫くして退院。 自宅から週2回、車で片道1時間半かかる病院へ通院していた。 4月に異動の為、主治医が変わった。 医者が変われば治療も変わる。 医者が変われば容態も変わる。 4月からあからさまに容態が悪化し始めた。 GWが過ぎ、9日に入院。 その日の朝は、もう立てなくて、はって洗面所まで行き、母に介助されての洗面だった。 その状態で1時間半も母の運転する車に乗って…。 相当辛かったようで、道中一言も喋らなかったそうだ。 やはり即入院。 それからやっと、主治医が変わって初めて輸血をしてもらった。 もうギリギリの状態まで輸血してくれなかったから。 母はその日から病院に付き添い。 私は、次女の卒園・入学と色々と忙しく、やっと少し落ち着いてきた頃だった為、これまでなかなか出来なかった父と母を助ける為に睡眠時間を削っての生活となった。 昼間は家を守る為に畑仕事や草刈り、学校、仕事、家事。 子供が寝てから再び仕事。 週に一度は病院へ。 私一人の時もあれば、子供や主人と一緒の時もあった。 父に特別だと思われないように、通っている皮膚科のついでだとか何とか理由をつけて行く時もあった。 付き添いの母もすっかり痩せてしまい、そうとう辛そうだった。 私も無理をし続けた為、むち打ちに近い状態にまでなってしまい、まともに生活できなくなってしまった。 しかし、その頃、本当に父の容態もかなり悪化していて、覚悟の時期だった。 とにかくこのカラダを治さなきゃ。 それで、その週は病院に顔を出す事が出来なかった。 毎日毎日、接骨院に通い、ゆっくりだけど徐々に回復してきた。 そしてその週の日曜日に、家族で病院へ行く事にしていた。 土曜日は授業参観。 もし学校行事が無かったら土曜日に行っていたのだけど…。 父は待ってくれなかった。 というか、病院が待たせくれなかった。 夜、連絡が入り、子供も連れて4人で病院へ向かった。 かなり急いで車を走らせた。 しかし、間に合わなかった。 私たちが到着する頃には全て片付いて帰れるようにいてしたのだ。 最後の最後まで意識がしっかりしていた父。 その父に「もう意識はぜんぜんだから何を言っても大丈夫」と、「脈がおかしいからもうダメだ」「目がおかしくなってきた」と、父に聞こえるように、父に向けて看護師が話しかける。 付き添いの母ではなくて、苦しい中ただひたすら生きたいという気持ちで頑張っている父に「もうダメだ」の連発。 その言葉で父は諦めてしまったのだろう。 母は唯一それだけは許せないと言っていた。 これまでずっと「治ってまた家に帰ろう」と嘘を突き通して励まし頑張ってきた。 父の「生きよう」という想いを大事にしたかったから。 最期まで生ききって欲しかったから。 なのに最期の最期にそんな事って。。。 父はちゃんと聞こえていたと思う。 亡くなる一時間前にも看護師の「娘さん達はどれくらいかかる?」という質問に「一時間くらい…」と答えていたそうだ。 全部、母では無くて父に。 当日、母が少し部屋を離れている間、看護師によくよく頼んでおいたそうで。 用事を済ませて慌てて病室に戻ってみたら、病室前に廊下で看護師が3人くらい笑いながら立ち話をしていた。 ドアを開けると、父が苦しがっていて母はビックリ。 直ぐにその廊下で喋っている看護師に「苦しがってるよ!」と言うと「え?さっき覗いた時には寝たけど~」と急ぐことも無く、迅速に対応もしてくれなかったそうだ。 人の死に慣れて麻痺しているのだろうか? 人の死がそこまで軽く扱われるというのは当たり前で普通のことなのだろうか? 精一杯やって悔いの無いようにと、自分の心やカラダを犠牲にしても父が少しでも苦痛から解放され過ごせるようにと必死になって送ってきた。 それがこの看護師の行為で全て水の泡。 これだけがどうしても悔やんで悔やんでどうしようもない。 けれど、どれだけ悔やんでも父はもうこの世には居ない。 主治医出張、土曜日で休日の為、また夜間の為に看護師が少ない時間帯。 「あ~、最期の最期までやってくれるな~、お父さん…。」 そんな感じだった。 父らしいというか何というか…最期の時までタイミング悪くて家族大迷惑とは、なんかもう、悲しいのだけど呆れてしまったな。 後はまた、心を込めて出来る範囲で一生懸命四十九日を過ごす事だ。 父が安心してあの世に行けるように。 7月2日21時2分。 72歳1ヶ月。 父、病院のベッドでこの世を去った。 急いだんだけど、間に合わなくてごめんね。。。 これまで色々な方に沢山励ましていただき、また、協力していただきました。 父が亡くなった後も気遣って頂いたり。 心より深く感謝しております。 後半は父が病院に居たという事もあって、まだ今もその病院に行けば居るような不思議な感覚でまだまだ現実をしっかりと受け入れられてない自分が居る事も確かです。 仏壇のお骨や位牌を見てもポカ~ンとなってしまいます。 ですので、徐々に悲しみも湧いてくるかもしれません。 しかし、生きている者にしか出来ない事。 これをただひたすら毎日コツコツとやっていこうと思っています。 これまでありがとうございました。 そして今後も家族で頑張って行きますので、宜しくお願いします。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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