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カテゴリ:平和
SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)のmixiの「九条の会@mixi」に投稿したものに少し追記してアップします。
1月9日の朝日新聞において僧侶・作家の玄侑宗久さんが述べていることに共感するもので、ここに紹介させていただきます。全文を、とも思いましたが、要約をご紹介いたします。 このところ犯罪が発覚すると、罪を犯した人は「きょとん」としていて、重大な罪を犯したという自覚がない。 そもそも罪の意識は、誓いあってこそ芽生える。殺生しないと誓ったことがなければ、殺人でさえ当人には罪と感じられない。 どうして命が大切で、なにゆえ殺生がいけないことなのか、理詰めで教育しようとしても、おそらく無駄に違いない。理詰めで進める限り、どんな意見にも必ず反対意見がありえるからである。 思えば完全に受身で産み落とされた我々の命。そのままでは大切にすべき理由は見当たらない。しかしそんな命を大切なものとして慈しみ、育んでくれた人々がいた。そのことで、感覚的に大切そうな命と感じる人々は多いだろう。 それでも同じような体験をすべての人が共有できる世の中ではないから、今は誓いこそが大切なのである。 不殺生戒が仏教発生以来、ずっと変わらずに続いてきたのは、それが結局は遵守不可能であるからだ。仏教は植物も動物も対等の命と認め、家畜などという手前勝手な考え方もしないから、今日一日を生きのびるためにさえ無数の殺生をしなくてはならない。そのことを自覚し懺悔し、不殺生を誓いつづけるのである。 それほど実現不可能な戒をどうして立てるのか。それは、実現不可能であるからこそ、戒は永遠のものになり、永遠の誓いとなる。 不可能を目指しつづける人間は、たぶん美しくなる。だから「美しい国」であるためには、たとえば憲法9条も、現実に合わせて変えるなどと発想してはいけない。 むろん個々人がそれぞれ遥かな請願をもつことが何よりも大切なことだ。 最近は、外側から人を法令や決まりで一律に規制しようという風潮を感じるが、そんなことで「きょとん」犯罪が減るはずも、罪の意識が芽生えるはずもない。 問題は誰に向かって誓願をたてるのかということだが、尊敬する師匠がいれば最高だろう。それがいなければ・・・・・畏怖する雷親父、神・・・・、仏・・・・。 近頃の人々の不幸は、実現可能な目標ではなく、遥かなる誓願をもとうという発想のないこと、そして誓う相手が見当たらないことかもしれない。 以上です。 もっとも疑問を持つ点もあるかもしれません。 誓う相手として、玄侑さんは、グレート・サムシング的や社会的権威(? 雷親父などを引き合いにしているので...)を考えているようですが、それだけではないと思われます。宮崎吾郎監督で話題になったゲド戦記の訳者の清水真砂子さんは、あるとき自分が間違わない生き方をしようと思ったら、なるべくこの世界の弱いところに目を向けて視点を移すべきではないか、と感じた、とのことです(これがゲド戦記の第4巻に反映されていて、著者のル・グインと自分を重ねた、とのことですが、これはまた別の話です)。誓うとすれば、この世界において、無情にも命を断ち切られた存在や与えられた命を捻じ曲げられてしまった存在(それは過去形だけでなく現在形でもあるでしょうが)に向かうことも考えられるでしょう。 日本国憲法において希求されること、それは誓願といってもよいことかもしれません。そして、それは歴史的自覚によって、日本が起こした戦争の犠牲者、あるいは、日本も含めて当時の帝国主義の犠牲者に対して誓われるもののような気がします。また、今なおわたしたちが改めて日本国憲法を選びなおすのだとしても、現在の戦争の犠牲者や社会で小さくされている人たちに誓うことではないか、と考えさせられました。 ―追記 以上のように、「九条の会@mixi」に投稿したところ、「雷親父」のイメージは人それぞれあることに気づかされました。良いイメージで受け止める方もいらっしゃるようですので、私の思いはそれを否定するものではありません。「雷親父」という比喩が、私にとってはなじめなかった、というだけです。 それから、玄侑さんの戒めの考え方は、キリスト教的律法理解(パウロ的律法理解)とも繋がっている感を受けましたし、新聞を切り取っていたら、連れ合いに「また、説教ネタ?」とからかわれました。 もう一つ、玄侑さんは、安倍晋三の「美しい国」に対抗して、「人間の美しさ」に言及しているのですが、改めて「美しさ」って何だろう、と考えさせられています。ある大学時代に出会った方が、昨年地方紙にこんなことを書いていました。大学時代、オスカーワイルドの『サロメ』を読んだ感想。そこで、サロメがヨカナーン(洗礼者ヨハネ)の生首に口づけしようとする場面に著者と同様に(あるいはそれ以上に)美を感じた、というようなことでした。そういう「美」ってなにかなぁ、とか。また、私が好きな音楽において美しいと感じる瞬間は、ときにはありきたりの中にも存在しますし、時には、思いがけない和音進行・不協和音・音色や複雑なリズムの中にあり、またどうしようもないようなノイズの中にもあるのです。「美しい」ということはもちろん個人的で良いのですが、私は何を美しいと感じているのか、ということと、その美しさはやっぱり人生にとってかけがえのないものだな、と感じるこの頃なもので、ちょっと真面目に考えてみようかな、と思っています。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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