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カテゴリ:聖書
たいしたことではないのだが、改めて聖書の整合性について考えさせられる。
今、歴代誌を個人的に読んでいるが、今まで何度と読んでいたのだが、あまり意識しないで通り過ぎていたことに気づかされること多々である。 歴代誌は、大体列王記と同じ表現が多く、これまでは列王記の記述を中心的に考えていた。ところが、歴代誌は、悪い王によってイスラエルの国が滅び苦難を受けた、という見方が強いのだろうか。たとえば、ユダの王ヨアシュは、歴代誌下24章で、「祭司ヨヤダの生きている間は主の目にかなう正しいことを行った。」とあるが、列王記下の12章では、「ヨアシュは、祭司ヨヤダの教えを受けて、その生涯を通じて主の目にかなう正しいことを行った」とある。ヨアシュが晩年謀反にあい無残な死に方をしたために、歴代誌ではヨアシュは心から神に従ってはいなかったと神との関係を疑ったのだろう。また、ヨシュア王についての記述も、歴代誌では、エジプト王ネコの口を通して語られた神の警告を聞かなかったために、エジプト王ネコの手によって殺された、とされるが、列王記では、マナセの引き起こした主の憤りが収められず、その怒りゆえにヨシュアが死んだ、と読める。列王記と歴代誌の二つがあって、はじめて相対化されながら、本質的なことを考えようとすることに導かれるのではないか、と考えさせられている(他、いろいろと祭司的・レビ人的立場から書かれているのが歴代誌だと言われますが...)。 ところで、ヘブライ語聖書も歴史の中で写されながら残されているが、単純なミスも存在する。 ユダの王アハズヤは、父ヨラムが40歳でなくなってから即位するのであるが、その年齢が歴代誌下では、42歳とある。しかも、アハズヤはヨラムの子の最年少のものであるというのだから、どうも変である。そこで歴代誌を見ると、その即位の年齢は22歳なのであった。最初、僕は自分の聖書の誤植かと思ったが、新共同訳聖書が底本とするマソラテキストでも42歳であり、口語訳、新改訳とも42歳となっていて、列王記と不整合だからといって修正はしていない。英語のKing James Versionは、42歳としているが、NAS(New American Standard Bible)やNIV(New International Version 1984)などは、22歳として列王記と整合させて訳している。 あきらかな写本上のミスかもしれないが、今の感覚で矛盾点を修正し訳してしまうというのは、いかがなものであろうか。 聖書は霊感をもって書かれたものとはいえ、一字一句間違っていない、というものではなく、矛盾もない、というものでもない。人間の言葉となっている時点で、本当の神の言葉とは似ていても非なるものとなっているのではないだろうか、と思うのである。最近読んだ本で、誰かが言っていたのだが、「仮に神語聖書というものがあったとしても、人間は誰一人理解できないのではないか」という言葉が心に残っている。だからこそ、聖書の言葉の解釈に多様性が生まれ、説得力を持つ言葉も時代によって変わってくることもあるのだろう。聖書は66巻がたった一冊にまとめられているだけなのに、それを解説する本ときたらいったい何冊になるのだろう。そして、神の言わんとする解釈に近づこうとしても、自分の状況や社会の状況によって、また新たな考えや心にさせられることがあり、ここに汲めども汲めども尽きぬ泉があると思わせられるのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
Jul 8, 2010 09:20:35 AM
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