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テーマ:今日の出来事(292851)
カテゴリ:平和
2月11日は、通常建国記念日として祝われているが、わたしたちは、かつて思想・信教の自由が奪われたこと、思想・信教の自由を抑圧してしまったことの反省をこめて、「思想・信教の自由を守る集い」というのをしている。
通常、憲法問題や天皇制のことなどを扱ってきたが、今年は、生存権ということとも関わって、生活困窮者とどう向き合うかということから、釜ヶ崎で司祭として働かれている本田哲郎神父をお招きした。 師は、ローマ法王庁でも働かれ、聖書翻訳者として新共同訳聖書にも携わった方であるが、今はなんといっても、釜ヶ崎という日雇い労働者の街から聖書を読みなおしているところが注目されている。キリスト者が社会的弱者を指して「いと小さき者」と述べていることに対して、「小さくされた者」であると見方を変える。誰かによって小さくされた存在、貧しくされ、抑圧されているのだ、という視点を持つのである。そうしたところからの聖書を読み直し、「悔い改め」とは道徳的な意味よりも、視座を変えろ、ということだ、と述べる。視座を「小さくされた者の視点」にすることが、メタノイア(悔い改め)であると説いているのである。 その本田神父をお招きしての会は、大雪だったにもかかわらず、満員御礼となり、最初用意していた資料80部はあっという間になくなり、あわてて40部を増し刷りした。多くの方々に関心を持ってもらえた会となり嬉しかった。 講演題は「愛することよりも大切にすることを求めたい」というものだった。わたしたちが上から目線で「愛する」ということを実践しようとして自己満足になるのではなく、抑圧されみじめな思いになっている人の立場を考えよう、と呼びかけられた。 神のイメージを高いところに置きがちであるが、旧約聖書や新約聖書が示す神のイメージは低いところにある、ということを語られた。神が上から下に降られた、ということを「へりくだり」の見本のように考えがちだが、それが「上から目線」を持つことになる。高貴な人がわざわざ貧しくなる、卑しくなるということが尊ばれ、貧しい人は上層部の人たちの慈善という徳の対象でしかないのではないか、と問題提起されていた。イエスは最初から貧しい者として生まれ育ったのであり、へりくだりを美徳としたのではなかったのだと言われた。貧しい人や抑圧された人が本当に自分の足で立てるように、誇りを回復できるようにすることが求められているのだ、と感じさせられた。また、講演の後、昼食をとり、質疑応答もあったが、松本で生活困窮者のことを考えている「生存を支える会(仮)」の代表の方にも発言をしていただいた。釜ヶ崎などの寄場だけでなく、松本にもこの寒さの中、野宿生活を余儀なくされている人がいることを知ってほしい、その人たちのために行動を起こしてほしい、と訴えられた。 前日に、本田神父と打ち合わせをした際に、私の教会にも家のない人が訪ねてこられることがあるが、どこまで彼らの要求にこたえてよいものか、いつも悩むことがある、と言ったら、「自分の価値基準で判断しないように、痛みを知る仲間や先輩に尋ねるのがよい」と答えられた。そして、聖書の「どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところにわたしもその中にいる」(マタイ18:20)というのは、キリスト者の二人、三人ではなく、本当に痛みをしる仲間のことを指すのではないか、と言われていたことが印象に残った。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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