備前国一ノ宮 石上布都魂神社
岡山県赤磐市備前国一ノ宮 石上布都魂神社中国自動車道を西へ「見作」ICまで軽快にドライブ、それもそこまで、ここから国道374号線と国道484号線、県道255号線、県道468号線と下道で山越えです。ここまで燃費が良かった愛車、燃料計の動きは速い。細い県道もなんとなくピークを越え、アクセルを踏まなくても車は勝手に走る。これなら燃費も稼げるなと思い始めたところで石上布都魂神社の大鳥居が現れる。長閑な山間の県道沿いに真新しい鳥居と社号標だけが立っている。鳥居から先の谷筋に山道が延びてはいるが参道を感じさせる趣きは全くない。奥には少数ながら駐車場があるらしい、車で細い山道を登ります。対面通行の山道、なので幅寄せ、バックに慣れていないと苦労するかもしれません。下からは見えなかったけれど、登り始めて直ぐに道路脇の大きな杉木立中に鳥居が現れる。駐車場はまだこの先、車を停めてから撮りに戻ってきました。銀ピカの布都魂(ふつみたま)神社解説板が用意されていました。奥の院まで行かないと始まらないようです。道路脇の杉木立には趣のある石灯籠と鳥居があります。駐車場はまだこの先の様です。周囲は見ての通り、見渡す限りの山、そこを地道に切り開き棚田が点在する。人のエネルギーとは凄いものだ。このように不便な場所に一之宮がある事にも驚く。私達はこの写真の下にある第二駐車場に駐車、かみさんは先に神社へ、自分は鳥居に戻り写真を撮った後で境内で合流する事とした。第一駐車場の前から、山の頂に続く表参道入口。写真を撮り終え、下から急ぎここまで登ってくるだけで結構息が切れるものがある。こうした入口で楽なところがあった試しがない、ましてやこの雰囲気は何か長い🐍が出そうな予感。ここは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った時の剣「十握剣」を祀った神社、途中の国道から少し山に入れば「血洗いの滝」と呼ばれる滝があり、ここで血染めの剣を洗い清めたとされます。嫌な予感を抱きながら舗装された坂を登り始める。楽ちんだった坂道はすぐに石段に変わる、予感的中です、これが何段あるのやら。石段に変わってから手水舎が現れるまでは意外に早く、入口から5分程です。左上には常夜灯も見えています、意外と大した事はない。境内に続く最後の石段の脇に手水舎、手水鉢。龍口からは絶え間なく清水が注がれています。しかし、COVID19の感染防止対策から手水作法を控えるように注意書きが貼られています。このご時世、下手に物には触れられない、当然でしょうね。最後の石段の先には拝殿も見えています。有難いはずの手摺もこの時期は素手で触れるべきではないのかな。こんな心配がいつまで続くのだろう。登り始めに付けていたマスクはメガネが曇り足元が見えなくなるので人に出会うまでは外す。新鮮な空気を吸い込み最後の石段を登り切る。山の中腹を切り開いた境内は意外に広い、狛犬が守護する先が石上布都魂神社拝殿。境内の参拝客は我が家だけの様です。かみさんは参拝を済ませ、境内左にある奥の院へ続く参道に向かっています。石上布都魂神社唯一の狛犬。ぴんと背筋を伸ばしたその姿、なかなか貫禄がある。綺麗な台座には昭和42年とありますが、狛犬は随分と老けて見えるのは気のせいか。入母屋瓦葺で大きな向拝を持つ拝殿は木の質感を生かしたシンプルな外観。拝殿右の軒下に小さな社が祀られています。まずは参拝。COVID19対応で鈴も使用を控えるように張り紙がされています。拝殿内の眺め、鏡が光り輝いています。軒下の小社は社名札はなく、詳細は不明。拝殿横から外研ぎの千木、鰹木が施された流造の本殿の外周を見て廻ることができます。破風尻等に飾りはなく見た目はシンプルな外観ですが、向拝柱に繋がる海老虹梁の曲線や彫飾り、梁に施された彫飾りなど目立たないところで装飾が施されています。上は本殿右、下が左の妻を見上げる、鶴と亀の姿が彫られています。木鼻などは彩色されていたのか、名残が見られます。岡山県神社庁でこちらの由緒を以下の様に紹介していました。『当社は「延喜式」神名帳、備前国赤坂郡6座の内の1社である。備前国総社神名帳128社の中で正2位と記されている。古くは書紀一書に「其の蛇を断ちし剣をば、なづけて蛇之麁と日ふ。此は今石上に在す。」また一書に「素盞嗚尊、乃ち天蝿断の剣を以て、其の大蛇を斬りたまふ。」と記している。「吉備温故秘録」で大沢惟貞は記紀、旧事記、神社啓蒙天孫本記、古語拾遺等から「曰く、この数書以て考ふるに、上古素盞嗚尊、大蛇を断の剣は当社に在る事明らかなり、その後、崇神天皇の御宇大和国山辺郡に移し奉るとあれども、当社を廃されしと見えず。(以下略)」 寛文9年備前藩主池田綱政が山頂磐座に在った小祠を造営復興し、延宝2年「社記1巻、社領20石」を廃藩まで奉納した。他に「備前一宮」として、今日「一宮巡拝」等で参拝者が増えつつある。山頂の社殿は明治43年火災に遭い現在地に移す。昭和20年「県社の資格有り」と認めたれた。現在拝殿は平成5年改築』1910年の火災で焼失以降、山頂から中腹の現在地に再建された様です。本殿に比べ拝殿の傷みが少ないのは近年の補修によるものです。明治時代まで、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂と伝えられていたようで、1870年(明治3)の『神社明細帳』では神話の記述に従って十握剣と書かれ、それを祀ったのが創始と伝えられているようです。その剣は崇神天皇の時代に大和国の石上(いそのかみ)神宮(奈良県天理市)へ移されたとされ、石上神宮の社伝にも記されているそうです。1874年に石上神宮禁足地の発掘調査で、それらしき剣は実際に発掘されたようです。血洗いの滝といい、出雲神話の八岐大蛇の伝承地の一つである。創建 / 不明祭神 / 素盞嗚尊 布都御魂本殿 / 流造御神徳 / 学業成就, 安産, 癌封じ, 農業振興拝殿右に境内社の稲荷神社。稲荷神社の詳細は不明。境内の左に寺務所とその奥が授与所。下は授与所内の光景、宮司さんは常駐ではないので、運良くお見えであれば直接書いて頂けるようですが、通常はこの御朱印自動授与機から書置きを頂きます。なかなかの最新システムですが、参拝日は自分で書き入れることになります。山頂の本宮・磐座へは拝殿左の舗装された「意思の坂道」を登っていきます。54段の石段があり、高齢の方が杖なしで登り切ったとあります、ここは杖なしで行かねば。入口には10分程とあるけれど、たかが54段で10分?それほど甘くはない、54段を過ぎるとこんな感じ。ちょっとした低山トレッキングの様相、結構息が切れる。そんなおやじに道すがらの「命様」が微笑んでくれるが、息は切れ、微笑み返す余裕はない。上の写真は「命様の磐」、参道にはこうした見所が何カ所かあり、一休みしながら大松山の頂を目指す。やがて先の斜面に鳥居が現れればあと少しの辛抱。杖なしの高齢者に負けてはなるまい。ここで上から下りてきたかみさんと出逢う、「どう?」と聞くと「あと少し、上には小さな社と磐座があるだけ」と言い残し御朱印自動授与機に向かっていった。本宮鳥居から先は再び石段が続く、その先には陽光が降り注いでいるのが見える。鳥居の先の石段は「迫龍の段段」と呼ぶようです。残りは44段+18段。44段を上ると本宮が視界に入ってくる。足す18段とはこのことを云っているわけだ、視界の先から森は消え、空が広がっています。本宮の手水鉢、水の入ったPETボトルは清水なのかな?1669年(寛文9)岡山藩主池田光政が山頂の小祠を復興、1710年(宝永7)2代藩主池田綱政創設した当時の伽藍を描いた絵図が掲げられています。跡地に看板も建てられ、絵図を元に当時の伽藍をイメージする。この頂きにこれだけの伽藍を作ったとは、目的持った時の人のエネルギーは凄い、それも焼失してしまったのは残念。足す18段登ってみよう。本宮跡地に祀られる小さな社、その後方が原点ともいえる磐座です。社殿は焼失し、中腹に移ったけれど、磐座と小さな社のみとなった今の姿は、ある意味始まりの姿なのかも知れない。巨大な岩が横たわり、右側には社のような岩も見られます。一帯は禁足地なので、ここまでです。静寂漂う山の頂、何かがいる、そんな雰囲気が漂う不思議な空間です。鳥居の近くで見かけた方位板、木々が迫り意外に眺望は効かない。さあ、かみさんが待っている、ゆっくり慌てて下山しよう。下の鳥居から本宮までの登りは運転手にはやや足に来る。意思が求められる山道かもしれないけれど、それだけの価値はある。備前国一ノ宮 石上布都魂神社(イソノカミフツミタマジンジャ)創建 / 不明祭神 / 素盞嗚尊 住所 / 岡山県赤磐市石上字風呂谷1448車アクセス / 中国自動車道「見作」IC、国道374号線と国道484号線、県道255号線、県道468号線を経由50分程