上野國一之宮 貫前神社
上野國一之宮 貫前神社末社「日枝神社、二十二末社、伊勢内宮・外宮」からの引き続きとなります。今回は総門から先の上野國一之宮貫前神社となります。総門全景。大鳥居と総門は同じ社地に建ち、ここまでは平坦な参道が続く。総門の建築年代、文化遺産登録を調べて見たが貫先神社総門の建立時期、文化財指定は登録されていなかった。とはいえ、美しい姿の門であることに違いはない。門前には銅製燈籠一対と狛犬が守護している。門の左の由緒。内容は以下。「延喜式内社 一之宮貫前神社 上野国一之宮 旧国幣中社御祭神 経津主神 建国の功神 武神 物部氏祖神姫大神 御名不詳 当地方の守護神 養蚕機織の神御創建 今より1400余年前、安閑天皇の元年(西暦531)に物部姓磯部氏により、蓬ヶ丘菖蒲谷に祀られる。御社殿徳川三代将軍家光公による寛永12年(西暦1635)の造営。総漆塗極彩色の建造物で本殿・拝殿・楼門は国指定重要文化財。境内北斜面の森を含め約26000坪社殿の他に経蔵・三重塔址等、神仏習合時代の仏教遺跡が残存。祭儀古式の特殊神事等数多く年間71度の神事あり。主な祭儀1月1日 歳旦祭仝3日 元始祭 水的神事仝7日 生弓弥矢生太刀神事(鬼退治)仝15日 筒粥神事2月17日 農耕始祭3月14日 春季御戸開祭仝15日 例大祭6月30日 大祓式11月23日 新穀感謝祭12月1日 御神酒醸り神事仝8日 川瀬神事 鹿占神事仝11日 御機織神事仝12日 冬季御戸開祭仝31日 大祓式 除夜祭式年遷宮12年毎の御遷宮祭申年12月12日 仮殿遷座祭酉年3月13日 本殿遷座祭」門前に建てられている銅製燈籠。大きさもさることながら、竿に施された獅子や龍、波の造形は緻密に表現されており、台座には無数の献納者の氏名が記されています。上は竿に寄進年が記されている。下は燈籠の解説、内容は以下。「富岡市指定重要文化財 貫前神社唐銅製燈籠平成9年4月23日指定高さ約395㌢の一対の銅製燈籠で、慶応元年(1865)製作、慶応2年にここに建て られた。燈籠の基礎部と竿部の間に、燈籠建立の際の献納者名・居住地・献納額が二段に刻まれている。献納者の人数は合計で1544名、献納額は総額4790両にのぼり、地元の多数の養蚕農家をはじめ、上州・江戸・横浜の生糸・絹商人らが献納している。本県をはじめ、周辺各地における養蚕・製糸業の繁栄興隆と、これに携わる人々の祈念を明確に示す資料として重要であり、7年後に開業した旧富岡製糸場の先駆的記念碑ともいえる貴重な文化財である。富岡市教育委員会」こうした転用可能な資源は戦争になると、多くが武器に変えられていくが、供出されたものと供出を免れたものの境界は何だったのだろう。資源を持たない貧しい国であることは、今もなんら変わる事がない。門前を守護する個性的な面構えの狛犬(阿形)。台座に刻まれた寄進年は〇和2年と読めたが、昭和とも読めなくもないが、この風貌が1927年の物だろうか、〇和と付く元号は結構あるだけに自信がない。朱に彩られた総門から境内の眺め。下り宮と呼ばれ、鵜戸神宮(宮崎県)、草部吉見神社(熊本県)と並び日本三大下り宮の一つに数えられるそうです。勝手な想像ですが、戦乱の時代、「ヤアー」と威勢よく大鳥居の石段を駆け上り、「門だ行け―」と打ち破った先に急な下りの石段なんて「聞いてないよぉ」となるのかも、下り宮にする意図は諸説あるようですが真実は分からない。個人的にもこうして門なり、鳥居から下るのは思いつく所で熊野那智大社の別宮、飛瀧神社くらいです。現在の社名「一之宮貫前神社」は旧社格制度廃止に伴い、改称されたもので、六国史(日本書紀、続日本紀 、日本後紀、続日本後紀、日本文徳天皇実録、日本三代実録)などの古書で、貞觀元年(859)「貫前」の名で現れます。総門から楼門の眺め。車椅子の方は総門右の宝物館方向からスロープが用意されています。手摺があるとはいえ、いざ転ぶと痛いだけで済まないかも知れない。境内側から総門の眺め。石段の中ほどの右に建つ斎館。その向かいに入母屋妻入りで朱で塗られた末社「月読神社」が鎮座します。末社「月読神社」解説。「月読神社の現在の社殿は、寛永12年(1635)以前の旧御本社拝殿を牛王堂として使用し、明治維新以後、 月夜見命をお祀りして月読神社と改称した。明治41年(1908)、近在の氏神である社久司神社(秋畑琵琶澤)、雷電神社(秋畑二ツ石)、湯前神社(秋畑裏根)、近戸神社(富岡市野上)の各社を合祀した。月夜見命他十七柱の神々をお祀りしている。」平成2年(1990)に寄進された狛犬。鬣のカールや筋肉の盛り上がりが力強い。月読神社から社殿を眺める。手前が手水舎、その先が楼門、拝殿、本殿と屋根が連なっています。石段から楼門正面全景。銅板葺き入母屋造りの一間一戸の朱塗りの門で左右に東廻廊、西廻廊が繋がり、面格子の間に随神像が安置されています。建立は寛永12年(1635)と云われ、元禄11年(1698)に五代将軍綱吉の命で大修理が加えられているようです。当時の屋根は杮葺きだったようです。昭和4年に杮葺きから銅葺きに変えられたそうです。楼門は廻廊を含めて斜めから見た時の姿が美しい。楼門左の手水舎。楼門から総門の眺め、正に下り宮。楼門の前でまずは参拝。艶やかな朱の門そのものに目が行きますが、蟇股などにも龍や虎など彫飾りが施されています。自分には見付けられなかったが、楼門内部の天井には建立時と元禄の大修理の際に残された大工の落書きが残っているらしい、そこには当時の米や麦の値段が書かれているとの事。給料は上がらないし、玉子も高くて「やってらんねぇ」大工の呟きだろうか、物を作る人はどこかに自分の痕跡を残したりするものです。左右に安置されている随神。「…確かに、最近何でも高いのが当たり前、どさくさに紛れ私腹を肥やすものは射抜いてやろう」貫前神社拝殿。入母屋檜皮葺で正面に軒唐破風が施されたもの。こちらも徳川家光により寛永12年(1635)に造営され、後の五代将軍綱吉の頃に大修理を受けているもので、総漆塗で全周に極彩色で細密な装飾が施されています。平成21年(2009)から平成25年にかけて大修理が行われ、檜皮の葺き替え、彩色の塗り替えなど行われています。正面右の装飾。蟇股には飛龍、その下には白波の上を駆ける馬?が描かれています。正面左の装飾。正面の蟇股には遠目に龍の様に見えましたが、拡大するとどうやら亀のようです。拝殿の格子天井には草花の絵があしらわれてます。東照宮の様に権力の象徴を誇示する華やかさではなく、女性的な華やかさを感じる社殿。拝殿から本殿方向の眺め。本殿の全貌は見られませんが、本殿の造りはパッと見が入母屋造の単層の様に見えますが、実は二層構造の建物で下部が拝所で二階が神殿となるもので、珍しい構造の本殿様式のものを貫前造と称するのだとか。拝殿と本殿の全景。期待以上の美しい社殿は一之宮の品格が漂っている。拝殿右側面の装飾。こちらの面の蟇股には鳥の絵が描かれ、妻壁には獅子も描かれています。透塀の周囲は一周する事が出来、本殿の装飾もよく見ることが出来ます、単眼鏡があるといいかもしれません。本殿は貫前造の檜皮葺で垂木は二軒繁垂木で拝殿とは意図的に変えられている。内削ぎの置き千木で5本の鰹木が施されている。祭神は経津主神と姫大神。本殿左から廻廊方向の眺め。本殿域の左には流造の社が祀られています。本殿後方の杉の巨木の杜の中、藤太杉と名付けられた樹齢1200年と伝わる大杉が聳えています。天慶2年(939)、下野國唐澤山の城主藤原秀郷(俵藤太秀郷)が、平将門討伐の際、当社を参詣し歳の数36本の杉苗を奉納、その内の1本が今も聳えています。どれが?、と捜さなければ分からない程の緑濃い杜に包まれています。摂社の抜鉾若御子神社。解説に依れば抜鉾若御子神社は、安閑天皇(466~536)の御代に現われたとされ、上野国神明帳に従五位抜鉾若御子明神と記載される。明治38年(1985)に一ノ宮字若宮の地より現在地に遷座され、棟札から現在の社殿は文化12年(1815)の建立と伝う。この辺りの参道脇に経蔵址と彫られた石標が立ち、小道が出来ています。その先に解説板があり、その一帯には礎石が複数残っています。解説によれば、ここには神仏習合時代の経蔵が建立されていたようです。経蔵の建築年代は詳らかでなく、明治維新の廃仏毀釈により破却。所蔵されていた鎌倉以来の諸経や安置されていた仏像は高田川の川原で焼却されたという。礎石の配置から間口は五間、奥行きが五間半くらいと推測されるそうです。本殿域左から抜鉾若御子神社の眺め。本殿。拝殿にはない三間の向拝が付く事もあり、その分装飾も煌びやか。拝殿左から見た拝殿全景、これで本殿域をひと回りしました。妻壁は獅子、蟇股は水鳥が描かれています。平成の大修復により、色鮮やかに蘇っています。前回掲載した末社の日枝神社も、このように鮮やかな色彩が施されていたのだろう。楼門と廻廊全景。この門と廻廊がある事で拝殿や本殿の美しさが尚更引き立ってくるようにも見える。廻廊右から境内の眺め、左が社務所になります。この境内の右に神楽殿が建てられています。神楽殿全景。建立時期は定かではないが、扁額には享保2年(1717)丁酉とある。この広い境内で祭礼が行われます。神楽殿から更に右の高台にある宝物館方向に向かいます。そこには朱塗りの両部鳥居(勅額鳥居)と勅使門(あかずのもん)があります。勅額鳥居は清和天皇(850~881)の御親筆扁額が掲げられていた事から名が付いた。元々は一之宮大字田島字鳥居にあったもので、寛永12年(1635)に移築したもの。現在は有栖川宮熾仁親王(1835~1895)に依る神号額が掲げられている。勅使門は名の示す通り京より遣わされた勅使のみ開かれる門で、現在は春と冬の御戸開祭と流鏑馬祭りの年三回のみ開門される。ここから宝物庫の裏に向かうと三重塔址があります。柵の先に複数の礎石が残り、塔が建っていた事からこの地はお塔址と呼ばれるようです。古くは三重塔はじめ薬師堂、観音堂等の仏教施設が軒を並べたが、天保12年(1841)の火災により焼失し、弘化2年(1845)から再建が計画されたが計画だけに終わったようで、往古の貫前神社は神仏習合の巨大な伽藍を誇っていたようです。宝物館から車道に出て勅使門の全景。玉垣沿いに銅製燈籠や常夜灯が建ち並んでいます。燈籠の寄進年は寛政2年(1790)など江戸時代のものが多く見られ、長い年月から劣化は著しい。好奇心旺盛な子供連れは、我が子から目は離せないかもしれない。我が家の息子達も何でも登った時期があったものです。この先を進むと総門前に出ます。そして大鳥居から、また石段を下る。上野國一之宮 貫前神社、名古屋から結構長い時間を要しますが、高台に建つ大鳥居から望む富岡の町や遠く奥多摩の山々の眺め、そして下り宮の社殿の美しさ、訪れて良かったと感じるものがある。上野國一之宮 貫前神社創建 / 安閑天皇元年(531)祭神 / 経津主神、姫大神境内社 / 抜鉾若御子神社、日枝神社、二十二末社、伊勢内宮・外宮 所在地 / 群馬県富岡市一ノ宮1535参拝日 / 2023/05/11関連記事 / ・車中泊で巡る#1「上野国一之宮貫前神社」と「前橋東照宮」・上野國一之宮 貫前神社末社 「日枝神社、二十二末社、伊勢内宮・外宮」・熊野那智大社の別宮飛瀧神社