出雲大社 1 『一ノ鳥居から本殿域』
島根県二日目、今回はこの日の最大の目的地「出雲国一宮 出雲大社」を掲載します。出雲大社の大鳥居から少し南側の吉兆館前交差点にあり、1993年に設置された大きなレリーフ。右側には一人の人物が縄をかけ、力強く何かを引き寄せている姿が描かれています。出雲大社も近い事からこの人物は大国主命と早合点しそうですが、この方、出雲風土記の国引き神話に現れる八束水臣津野命。出雲の国を大きくしようと、三瓶山と大山に縄をかけ、海の先に見えている新羅の大地を力強く引き寄せる命の姿が描かれています。引き寄せられた大地は出雲大社が鎮座する杵築の岬や三保の岬となり、今の島根半島となり、使われた縄は稲佐の浜の南に続く薗の長浜になったという。壮大な神話ですが、島根半島を衛星写真で見ると神話の世界も見えてくる。所在地 / 出雲市大社町修理免773-53レリーフから北に向かった先に出雲大社 宇迦橋大鳥居がある。鳥居から先は松並木の続く神門通りの突き当りが出雲大社となります。鳥居の先に見える山並みは、左から鶴山、八雲山、亀山と連なり、それらを背にして出雲大社が鎮座します。手前の堀川や大鳥居一帯は、訪れた時には架橋工事が行われていました。1915年23㍍のコンクリート製で「出雲大社」と刻まれた扁額の大きさ6畳分の大きさ広大な出雲大社。一つに纏めきれないので、素鵞川と吉野川に挟まれた勢溜の大鳥居から本殿を中心に「出雲大社1」として掲載します。二ノ鳥居 勢溜(せいだまり)の大鳥居。神門通りの突き当りになり、大きな「出雲大社」の社標と大鳥居が建てられています。以前の鳥居は木造で、2018年に鋼製の明神鳥居に建替えられたもの。二ノ鳥居から神門通り方向の一ノ鳥居を望む。一ノ鳥居からここまでは、距離にして550㍍、徒歩で約10分の距離になります。二ノ鳥居から下り参道を進んだ右に鎮座する出雲大社 祓社(はらえのやしろ)。瀬織津比咩神、速開都比咩神、気吹戸主神、速佐須良比咩神の祓戸四柱を祀り、社殿に向かう前に最初にこちらで祓い清める。上浄の池。祓社を過ぎた右側にあり、一面菖蒲が植えられた庭園。下祓橋から松並木の続く参道。祓橋の手前を左に進んだ先に鎮座する出雲大社摂社 野見宿禰神社。解説は以下。「御祭神 野見宿禰令野見宿禰命は、出雲國造(出雲大社宮司)の祖先神天穂日命の十三世の嫡孫で、第十三代出雲國造襲髄命にあたります。「日本書紀」垂仁天皇七年七月七日の条には、当時、天下一の力士と評判であった当麻蹶速と御前相撲をとり見事に打ち勝ったことが記され、以来、野見宿禰命は国技大相撲の元祖と称えられ、今日では相撲をはじめスポーツを志す人々に広く崇められています。また、同三十二年には陵墓に建てる埴輪を献策してその叡智が称えられるなど、文武両道の神様です。祭日 4月1日 10月17日」三ノ鳥居。鋼製の明神鳥居、ここから先は松並み保存のため両脇の参道を歩いて行きます。参道右側の森の前に鎮座する杵那築森。鳥居の先には痩せた狛犬と苔生した臼が置かれている。杵那築森解説。『出雲国風土記』⁽733⁾の「杵築の郷」条には、「天の下の国造りをなされた大国主大神のお住いを、たくさんの尊い神々がお集いになって築かれた。そこで、この地を杵築という」と、この郷の地名由来を記しています。この森は、その神々のお集いの故地ともいわれ、また高大なお住いの神殿造営に際して、土地・木組みを突き固めるための要具である「杵」を、お住いの磐石を祈り埋納した処と伝えられています。祭日 4月3日、10月10日。松並木が途切れたその先に四ノ鳥居と社殿の姿が見えてくる。鳥居左側の手水舎。柄杓はなく、竹筒から注がれる清水で直に清めるもの。四ノ鳥居は銅製の明神鳥居。大きな注連縄が吊るされた拝殿も近づいてきました。さてその前に、四ノ鳥居の左右の柱の銘文に視線を向けてください。鳥居は寛文6年(1666)防長二州勅史従四位下・行侍従兼大膳大夫大江綱廣朝臣 長州藩2代藩主・毛利綱広から寄進されたと刻まれており、重要文化財の指定を受けています。特に右の柱には出雲大社が平安時代前期まで「大国主神」の祭神であったが、神仏習合の影響で鎌倉時代から17世紀頃の一時期、祭神が「素戔嗚尊」であったと刻まれています。当時、出雲大社は杵築大社と呼ばれ、鰐淵寺が杵築大社の神宮寺を務めており、鰐淵寺縁起には出雲の国引き・国作りの神は素戔嗚尊と記されている。それを示す様に右の柱の銘文には「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と刻まれています。しかし、出雲国造家は神仏分離・廃仏毀釈を主張して寺社奉行に認められ、寛文7年(1667)の遷宮時に仏教施設を排除し、古の記述に従い「大国主神」に戻され現在に受継がれています。長い歴史を持つ出雲大社、時代に翻弄されたことを伝えるものです。出雲大社拝殿。室町時代建立された拝殿でしたが、昭和28年(1953)、境内で起きた火災で焼失し、昭和34年(1959)に再建されたもの。右手に見えているのは観祭楼。拝殿から八足門、本殿の眺め。拝殿の注連縄。この大注連縄は三瓶山の東麗の山間に位置する飯南町の大注連縄創作館で作られたもの。飯南町は古くから出雲大社の注連縄を作ってきた町で、注連縄専用の田んぼで赤穂餅と云う品種を育て、身入りする前の稲を青田刈りして手作りで作られるもの。普段見かける綯い始めが太く先端の細いものではなく、中央が太く、両端に向かって細くなる形状の大黒締めで作られたもので、見た目のバランスがいい。この注連縄の大きさは約6.5㍍、重さは1.5㌧あるそうで、ミニバンより更に全長は大きく、車一台を支える梁もそれなりのものが使われています。因みに西に隣接する神楽殿の注連縄は長さは倍、重さは5倍と巨大なもので、観光バス並みの大きさになります。八足門。寛文7年(1667)に建立されたもので、切妻檜皮葺の三間一戸の文字通りの八脚門。派手さはないが、蟇股など細かな彫飾りが施されている。一般の参拝者はここから楼門の先の本殿に向かって参拝する事になります。神紋は亀甲に剣花菱紋が入ったもの。この地方の神社を何社か巡りましたが、出雲大社を筆頭にして、この地方の神社の多くがこの亀甲紋を神紋としているのが興味深い。八足門から楼門の眺め、楼門は結局全容を見られなかった。観察楼。寛文7年(1667)に建立されたもので、八足門から左右に続く廻廊と一部一体となった入母屋檜皮葺の桁行六間、梁間三間の二層構造の建物。観察楼の名が示す様に、かつて拝殿南側に舞台があり、上流階級のVIPがここから眺めるための施設。境内左の庁舎から48㍍の国旗掲揚塔の眺め、往古の本殿はあの高さに聳え立っていた。右手の門から素鵞川を越えれば大注連縄で知られる神楽殿に通じています。八足門から瑞垣沿いに左手に向かい、本殿を一周し境内社を参拝します。上は西十九社下はそこから本殿方向の参道の眺め。上は西 十九社。祭神は八百万神。旧暦10月には全国の神々が大国主大神に許に集まり、人々の幸福、生成発展のために神議する神在祭斎行され、この社はその際に神々の宿となり、普段は全国の八百万の神々の遥拝所となる。祭日 3月28日、旧暦10月11日~17日。十九社から本殿域の眺め。右は西門神社で本殿域を守護する神 久多美神が祀られています。出雲大社摂社 氏社。祭神 宮向宿禰由緒出雲国造家(出雲大社宮司家)の祖神 天穂日命の代十七代の裔で、允恭天皇から出雲臣の姓を賜り国造となり、大国主大神を祭祀しお仕えするとともに出雲国を統括する事となった。祭日 3月28日、11月17日。氏社の右に鎮座する出雲大社摂社 氏社。祭神 天穂日命。由緒天照大御神の第二子、出雲國造の始祖であり、大国主大神の祭祀をつかさどられ、現在の出雲大社宮司は天穂日命依頼第84代の直系の裔。祭日 3月28日、4月1日、11月17日。宝庫。寛文7年(1667)に建立されたもので、切妻檜皮葺の平入で一間の向拝が付くもので、社殿の中にあって唯一の校倉造りの壁で造られています。宝庫の辺りから見る本殿域。左手の社は神魂御子神社(筑紫社)、大社造りの檜皮葺で外削ぎの置き千木と3本の鰹木が載る。祭神 多紀理比売命。由緒天照大御神と素戔鳴尊との誓約によって生まれた三女神の一神で、福岡県の宗像大社に祀られる祭神。大国主大神との間に、味耜高彦根神と下照比売命をお生みになっています。祭日1月1・15日、2月17日、5月14・15・16日、8月1・15日、11月23日(旧暦10月11・15・17日)後方の本殿も外削ぎの置き千木と3本の鰹木が載る。彰古館。大正3年(1914)に建造された銅葺屋根の木造二階建で二階に高欄が付くもの。正面中央に切妻造の玄関が付く所謂宝物館で、扉は固く閉ざされていますが、土日には扉が開けられ料金を支払えば拝観できるらしい。本殿後方からの眺め。写真にすると実物のサイズ感が分からなくなります。現在の本殿は延享元年(1744)に造営された大社造りで、高さは24㍍と巨大なもので、外削ぎの置き千木と三本の鰹木が載る。ここに大国主大神が鎮まっている。内部は二間に分かれ、内殿の前室には客座があり、天之常立神・宇麻志阿斯訶備比古遅神・神産巣日神・高御産巣日神・天之御中主神の5柱と、中心の心柱付近に大国主大神の御子神、和加布都努志命が祀られていると云う。内部の天井には八雲之図が描かれていますが、八雲と称しながらも七雲しかありません。八が永遠を表わす事から、蘇りを願い七雲になっていると云う。今でも高く、大きな本殿ですが、往古の本殿は48㍍の高さがあったとされ、それを示す古代本柱も見つかっています。個人的に大社造りの最大の象徴として、本殿に続く長い向拝だと感じています。八足門の警備の方から教えて頂いた話ですが、素鵞川の対岸に聳える国旗掲揚塔の高さがその高さで、マンションで云えば13階に相当するらしい。長い向拝が本殿に続くその姿、掲揚塔から往古の本殿の姿をイメージするといいかもしれない。本殿後方の摂社素鵞社(そがのやしろ)稲佐の浜から持ってきた砂は、こちらの社殿の廻り縁の下にある箱に納めます。祭神は素戔嗚尊。由緒素戔嗚尊は三貴子(天照大御神、月読尊、素戔嗚尊)の一柱で、天照大御神の弟神。出雲国に天降りされ、肥河上に於て八岐大蛇を退治され人々を助けた。奇稲田姫を御妻として大国主大神を誕生させる。祭日 1月28日・10月6日。本殿左から向拝と大社造りの本殿の眺め。そして廻り縁の下三方に写真の砂箱が置かれています。稲佐の浜で採取した砂をここに納め、箱の中から新たな砂を袋に詰めて自宅に持ち帰ります。現地にはそうした案内がないので、書いておきます。持ち帰った砂は、自宅の四方に盛ると御守りになる。素鵞社の右に建つ文庫(ふみくら)。寄棟の栃葺の屋根で越屋根が付くもの。寛文7年(1667)の遷宮の際に建造された図書館。内部は土蔵造りで、左右に畳敷きの閲覧部屋になっている。貞享2年(1685)、徳川光圀は大日本史編纂の為、助さんを出雲大社に出張を命じ、その際にこの文庫を訪れ資料を閲覧したのではないかとされるようです。元々は彰古館の位置に建てられていたが、彰古館建設に伴いここに移設されたようです。出雲大社本殿東側から八足門方向の眺め。左から天前社、御向社で右が出雲国一宮出雲大社の本殿。国旗の下あたりに楼門があると思われます。瑞垣沿いにある天前社、御向社の由緒。天前社祭神 蛤貝比売命、蚶貝比売命大国主大神が手間山(てまやま)で難に遭われた後、大神の火傷の治療と看護に尽くされた女神で神護の神と称えられている。祭日 1月1・15日、2月17日、5月14・15・16日、8月1・15日、11月23日(旧暦10月11・15・17日)御向社祭神 須勢理比売命素戔嗚尊の子で、素戔嗚尊による大国主大神への試練に際し、大神の大業を輔けられ、美しい婦徳の鑑となられた女神です。祭日 1月1・15日、2月17日、5月14・15・16日、8月1・15日、11月23日(旧暦10月11・15・17日)千木は二社とも外削ぎです。瑞垣もそろそろ終わりが見えてきました、左側に釜社と東 十九社が見えてきました。出雲大社末社 釜社。祭神 祭神宇迦之魂神。由緒素戔嗚尊の子で保食神ともよばれ、食物全般にわたっての主宰神で、全国の稲荷社祭神。11月23日夜の古伝新嘗祭では、この社から奉遷された御神釜の前で御釜の神事が斎行されます。祭日 3月28日、11月28日。東 十九社。祭神は八百万神。西 十九社と同様の社で普段は全国の八百万の神々の遥拝所となる。祭日 3月28日、旧暦10月11日~17日。観察楼右から拝殿の眺め。廻り始めた時は国旗も揚がっていなかったが、大きな日の丸がはためいていた。四ノ鳥居から左の参道を進んだ先にある会所。こちらも寛文7年(1677)の遷宮に合わせて建替えられたもので、昭和18年(1943)に現在の場所に移築されたもので、入母屋檜皮葺の建物で、内部の床壁や腰障子には極彩色画や歌仙が安置されているという。会所の手前にある「むすびの神像」昭和61年(1986)に寄進されたもので、大国主大神がまだ若い頃、修行中に日本海の彼方から幸魂奇魂という魂が現れ、「むすびの大神」になられた、神話のシーンを表しているそうです。大国主大神は、この幸魂奇魂の「おかげ」を受け取ったことで、えんむすびの神となったとされます。良縁を求め大社へ祈願に訪れた際は、命の手前の幸魂奇魂のプレートの銘文に目を通してみてください。与えられた縁を生かすか否かは自分ですよと書かれています。出雲大社は規模も大きく、境内・境外社含め巡拝するだけでも、かなりの時間を要します。観光バスが動き出す時間になると、なかなか写真も撮り難くなるので朝夕に訪れるのがお勧めです。出雲大社 1 『一ノ鳥居から本殿域』所在地 / 島根県出雲市大社町杵築東195参拝日 / 2024/05/24関連記事 / ・二泊三日出雲の國「意宇六社めぐり」Day2・稲佐の浜と弁天島・出雲大社末社 「下宮」・出雲大社摂社 上宮(仮宮)・出雲大社摂社末社 大歳社