八剱社(丹羽郡大口町)
裁断橋と姥堂、堀尾吉晴邸跡・堀尾社・若宮八幡社に続く今回は、裁断橋の南側に鎮座する八剱社。裁断橋を渡った先の堀尾跡公園にも北参道があり、社殿西側を経て社頭に向かう事も出来ます。社頭全景。右に社標、一ノ鳥居は石造神明造(1935)で、左に手水舎があります。豊かな杜に包まれた参道の左には境内社、右側に神馬、神楽殿があり、拝所に続く。更に右に堀尾吉晴邸跡や若宮八幡社と繋がり、それら含めた社地は実に広大。所在地が大口町堀尾跡とあるように、この町域全体が嘗ての堀尾一族の邸宅があった場所。此の地は鎌倉時代末期に堀尾氏が移り住み、熱田神宮別宮八剱宮から御分霊を勧請し守護神として祀った事が神社創建のはじまりで、代々熱田神宮へ神饌米を奉納していたことから御供所村と云われていた。社頭左の手水舎と古井戸。歳を重ね貫禄が漂う風貌の龍。神橋から境内の眺め。若宮八幡社から神橋の下には水を湛えた掘りが巡らされ、手水舎後方の小さな小池に繋がっており、嘗ての堀跡の趣が漂う。境内には大きな石灯籠(1998)、五七桐紋が入った神馬像、その後方に神楽殿があります。参道の先は提灯櫓と明治11年(1878)に寄進されたニノ鳥居を構え拝所に繋がる。この辺りの神社の社殿としてはかなりの規模で、普段社格は気に留めないが、東参道の社標に「村社」とあったのを思い出す。少し興味が湧いて愛知県神社庁を調べて見た。そこには祭神と丹羽郡大口町の御供所、豊田、奈良子、堀尾跡の氏神とだけしか記されておらず、相変わらずつれない回答だ。記録を調べるしかないようだが、最近視力も衰えそうしたものに目を通す根気がなくなってきた。上知我麻社。参道左に鳥居と狛犬を構え、正面に三社祀られている。鳥居をくぐった先から社殿の眺め。薄化粧した小柄な狛犬。流造の社殿。左から事代主大神を祀る事代主社、乎止與命を祀る上知我麻社、大国主大神を祀る大国主社。八剱社が熱田神宮から勧請した事もあり、同様に勧請されたもの。源太夫社の縁起は以下。「源太夫社は、別名上知我麻社と呼ばれ、正二位上知我麻明神を祀っている。本宮は熱田神宮の式内にあり、八剱宮が祀られた同時期に祀られたもの。昔から歯痛に効果があるとされ、近隣地域から絶えず参拝者が訪れます。また、知恵の文殊の神として、学生や若者たちの参拝も多い。又、熱田本宮では、新生児の命名や子供たちの幸せな成長を祈る祈祷が昔から変わらず行われています」因みに、堀尾吉晴が熱田神宮よりこの地に八剱社を勧請したのが永徳2年(1383)とされる。更に拝所に向け参道を進むと左側に二社祀られています。小さな狛犬が本殿前を守護しています。左から天照大神を祀る神明社、津島社の御祭神は建速須佐之男命か。由緒については語られておらず詳細は不明。参道右側の神楽殿。桁行・梁間ともに三間の切妻銅葺屋根で四方吹き抜けのもの、妻壁には手の込んだ龍や彫物が施されています。時間帯が思わしくなくコントラストが強くて、ひと回りして何枚か収めたがなんとか見れるのはこれ一枚。建物は神楽殿と思い込んでいたが、文化財の解説によればこれは「拝殿」になるようだ。なので前記した神楽殿は「拝殿」に読み替えてください。解説は以下のようなもの。「大口町指定文化財 八剱社拝殿幕末にあたる文久3年(1863)に再建されたもので、明治35年(1902)に修理を受けている。当所の部材を比較的よく残し、彫刻の状態も良好である。彫刻は妻側に龍と唐獅子、桁側に狩猟図や騎旅図など、何かの故事・物語に取材した情景が展開されている」とある、作者は不明ですがなかなかのものです。ニノ鳥居から拝所本殿方向の眺め。堀尾跡公園にある八剱社の概説には以下のように解説されています。「堀尾氏は鎌倉時代の終わり頃、御供所に本拠を構えた終わり屈指の名族で、八剱社はその邸宅跡である。この八剱社は堀尾帯刀が熱田宮の八剱宮を勧請して、永徳2年(1383)に創建、以来再建を繰り返し今日に至る」と掲げられています。改築改修の履歴の中で直近は昭和7~10年に及ぶ昭和の大修理が行われている。寄進物の中にこの年代のものがあるのは昭和の大修理時に寄進されたのだろう。祭神は日本武尊、天照大神、菊理姫尊。拝所の前を守護する狛犬(1936)は背筋を伸ばし胸を張った凛々しい姿のもの。拝所となる神門には社殿域全周を囲う透塀が一体となり、その先の祭文殿は透塀が連なって本殿域を取り囲む。神門の「八剱宮」の額。拝所から先は広い中庭になっており、一対の大きな常夜灯が立てられている。そこから一段上がって狛犬が守護する祭文殿と本殿域を囲う透塀がある。神門は木造銅葺屋根の切妻で、門柱の前後に二本の控え柱が付く四脚門。神門右に石碑が立てられ、文字が刻まれているのだが読み取れなかった。ただ、上まで上がると中庭が良く見渡せます。ここから眺めると社殿域を囲む透塀と祭文殿の透塀が見渡せます。ここから狛犬を収めようとするも自分のカメラでは望遠がないとこれ以上は寄れない。祭文殿は入母屋銅葺屋根で、桁行三間の平入で梁間までは分からないが、二間に分かれ手前は高欄の付く舞殿の様に見えます。ここから透塀沿いに本殿方向へ。透塀の間から望む本殿。創建が南北朝時代とされることから、一間社流造の本殿の装飾も控え目なんだろうか。巨岩が組まれた本殿域後方から祭文殿方向の眺め。この辺りに来たらなぜだか鼻水が止まらない、花粉には強いはずなんだが。青い空を背景に祭文殿の鬼を見上げる。神紋は見られなかったが、杜の杉にはしっかりと花粉の入ったオレンジ色の花粉錐がある。ひょっとして花粉症かぁ、聞く所によれば突然スイッチが入るとも聞く。敏感な方にはこの時期に杜の中に入らない方が賢明かもしれない。こちらは大丈夫、綺麗な緑だね。拝所から社頭の眺め。ここに邸宅があった当時は一面田畑が広がっていたのだろ、金助と母親はここから裁断橋に向かっていった。西陽の加減だよなぁ、景色がなんとなく黄色いような気がするのは…八剱社創建 / 永徳2年(1383)祭神 / 日本武尊、天照大神、菊理姫尊境内社上知我麻社創建 / 八剱社勧請と同時期か祭神 / 乎止與命事代主社創建 / 八剱社勧請と同時期か祭神 / 事代主大神大国主社創建 / 八剱社勧請と同時期か祭神 / 大国主大神津島社創建 / 不明祭神 / 建速須佐之男命神明社創建 / 不明祭神 / 天照大神所在地 / 愛知県丹羽郡大口町堀尾跡1-67車アクセス / 名古屋から一般道で約50分参拝日 / 2024/01/26関連記事 / ・堀尾吉晴邸跡・堀尾社と若宮八幡社・裁断橋と姥堂 (丹羽郡大口町)