「世界を変える100人の日本人!」山田寅次郎
現在、トルコ共和国の市場を訪れると、瞬間接着剤を「ジャポン」、カミソリを「サムライ」、サンダルを「東京」と呼んで売っている。国民のアンケート調査によれば、世界で一番好きな国はダントツで日本。6年前(2002年)の日韓ワールドカップで、トルコが1対0で日本に競り勝った時、この国の新聞には次の見出しが躍った。「泣くなサムライ 心は皆さんと1つだ」 一体なぜトルコの人々はこれほどまでに親日家なのか。 ある小学校を訪ねてみると、そこでは日本について学ぶ授業が行われていた。授業に耳を傾けていると、先生が1人の日本人の名前を挙げた。「彼が私達トルコ人にとって大切な存在となった日本人、山田寅次郎です」 町には山田寅次郎広場も作られている。トルコと日本を結びつけた男として、その功績を忘れないために作ったそうだ。山田はトルコで最も有名な日本人なのである。 首都イスタンブールにあるイスタンブール商科大学には、山田を研究し、本まで書いたムム・ケマル・オケ教授がいる。オケ教授によると、山田がトルコにやってきたのは今から118年前である。 山田は1866年(慶応2)、現在の群馬県、沼田藩の藩主の息子として生まれた。15歳で茶道の名門山田家の養子となるが馴染めずにいた。 そんな山田を驚かせたのは、1890年のトルコからの親善使節団の来訪だった。650人の使節団は3か月日本で過ごし、帰路につく。24歳だった山田は遙か遠くの外国に憧れた。 だが、日本からトルコへ帰る途中、使節団650人を乗せた船は和歌山沖で台風に遭い、座礁し沈没してしまう。地元住民の懸命な救助活動も及ばず、生き残ったのは69人だけだった。青年山田にとって、この事件は平凡な日常を揺さぶる大事件だった。「この俺に何かできることはないだろうか」と思い、山田はトルコ使節団の遺族への寄付金集めを考え出した。新聞社に働きかけ、全国を巡って演説会まで開いている。このことは1890年(明治23)9月23日東京朝日新聞の記事にもなった。 こうして集まった寄付金は今の価値にして総額2700万円。その金を携えて1892年、山田は1人トルコへ渡った。「遺族のために使ってください」と山田が差し出した寄付金に、時の皇帝アブテュルハミト2世は深く感謝した。この時、山田が献上した実家の家宝だった鎧かぶとは、今も国立博物館に飾られている。感銘を受けた皇帝は山田を引き止め、「士官学校で侍の気骨を、そして日本語を教えてほしい」と言った。 「山田は士官達に強い影響を与えた。衰退していた国を奮い立たせる力になったと言っていいでしょう」と、オケ教授は語る。後に、オスマン帝国からトルコ共和国へと移行した時(1923,大正12年)、建国の父となった初代大統領アタチュルクも山田の精神を支えにしたとも言われている。 山田はトルコに貿易会社(CITE DE PERA)をかまえ、その後長きに渡って両国の橋渡しを続けた。オケ教授は「彼が持ち込んだ日本製品はとても質が良かったので、質がいいものを“ジャポン”と呼ぶようになったのです」と解説した。日本の製品は質がいいとトルコに伝えたのは山田だったのである。山田の情熱によって結ばれた両国の絆。その絆が後に奇跡を呼ぼうとは、彼自身まだ知るよしもなかった。 1985年(昭和60)3月17日、イラン・イラク戦争が激化。中東の危機が一気に加速する中、時のイラク大統領フセインが言い放った言葉は世界を震撼させた。「今から48時間後以降、イラン上空を飛ぶ飛行機は全て打ち落とす」事実上の無差別攻撃宣言だった。イラン在住の日本人達は恐怖のどん底に突き落とされた。一刻も早くイランから脱出しなければならない。しかしこの時、日本政府(首相は中曽根康弘)にはなす術がなかった。日本の航空会社はイランへは乗り入れていない。自衛隊機を派遣しようにも、法律の壁が目の前に立ちはだかっていた。ただいたずらに、時だけが刻まれていった。首都テヘランでは多くの日本人が救出を待っておびえていた。 タイムリミットまであと2時間を切ったその時、救いの手をトルコ政府が差しのべた。トルコのオザール首相は一触即発の緊迫状態の中、日本人のために救出作戦を命じたのだ。当時、イランに駐在していたトルコ大使イスメット・ビルセルはこう語った。「大変シビアな状況のもとで、危険も覚悟しなければなりませんでした。でも、日本との友情のために決断したんです。かつて山田寅次郎が我々にそうしてくれたように」 タイムリミットまで残りわずか1時間20分、日本人215名全員が脱出した。この奇跡の救出劇には、山田寅次郎がはぐくんだ両国の友情の絆があった。 2008年9月16日、悲劇の沈没事故から118年を経たこの日、一人の女性メリケ・アイクット(81歳)が山田寅次郎広場に足を運んだ。彼女の曾祖父メーメット・アリは使節団で生き残った69人のうちの1人。山田とも会っていた。広場の片隅には小さな慰霊碑がある。「山田は遺族の寄付だけでなく、全員に小さな鉄砲を贈ってくれました。とてもいい人だわ」 彼のような日本人がいたことを、私達は誇りに思いたい。10月17日(金)20:00 ~ 21:48に放送された「世界変える100人の日本人!JAPAN・ALLSTARS2時間スペシャル」のナレーションを元に書きました。これは、世界から注目を集め、尊敬される日本人を紹介するという内容の新番組です。http://www.tv-tokyo.co.jp/100japan/山田は製糸業を営んだこともあり、お茶の家元でもありました。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E7%94%B0%E5%AF%85%E6%AC%A1%E9%83%8Eちなみに、山田寅次郎の名前は『広辞苑』第5版には載っていません。