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その作家が精魂こめてつくりあげた
小説や詩などの作品より 日記やノート、手紙の類がすき。 これはいかなる心理のなせるわざでしょうか。 もちろん、まずはその人の 作品があってこその、 その作品への感動があってこその 第2段階としてのアプローチではあるけど。 だから、なな猫愛読の作家たち、 堀辰雄にしても太宰治にしても、 最近になって浸ってる立原道造や 昔ながながと論文みたいなものを書いた萩原朔太郎、 それから、リルケとか外国の作家でも けっこう、作品より日記や手紙や 書簡集を何回も何回も愛読してしまう。 あ、でも太宰だけはちょっと例外で 長年、その小説を愛読しながら あまり書簡集まで読みたいとは思わなかった。 読んだのは最近です。 小説がすべての太宰、 手紙は、あまりどうってことなかった。 『斜陽』のモデルになった太田静子さん宛の手紙は ちょっと作品とだぶりましたが。 太宰自身も、あまり手紙に凝る方じゃなかったらしく 書簡集なるものを自分の全集に載せることまで考えて 日頃から手紙を書くということの愚を書いた 文章まであったっけ。 もちろんなな猫、 べつに、私生活をのぞき見しようなんて ゲスな趣味でやってることじゃないはずですが 作品をすきになると より、その「人」を知りたくなるのかな。 その人の思いを直に知りたくなるのか。 それでありながら、もう作品だけで結構、 日記やノートまでは読まなくていいです。 そういう作家もいるというのが 自分でも解せない。 だからといって、もちろん嫌いなんじゃなくて その作品は、ほとんど読み尽くすほど凝るくせに たとえば山本周五郎とか 「レベッカ」のデュ・モーリア、 それから平岩弓枝の「御宿かわせみ」ものなんか もう、それこそ何度も何度も読むくせに そう作家自体を知りたくはないんですよね。 純文学と大衆文学的なものとの違いか というと、そうでもなくて 福永武彦もけっこう読んだけど 日記や書簡まで読みたいとも思わないし 向田邦子の全集は、まだ読んだことないけど 日記か書簡集なんかあれば読みたい気がする。 これ、どういうことなんだろう。 手紙も一個の作品と化してる 立原道造の書簡集をまた何度目かに読みながら ふっと考えたどうでもいいことです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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