首都チュニスにほど近い丘の上にたたずむ街、シディブサイド
チュニジアンブルーと真っ白な壁が映える美しい街並みは
チュニジアで一番美しい街と言われるほど
鉄鋲(モスマール)で飾られた青い扉も
ココで見るのが一番きれいに感じるかも
模様は家によって違い、魔よけの意味もあります
シディ・ブサイドの歴史は紀元前8世紀ごろ
カルタゴ文明の始まりまで遡ります
シディ・ブサイドから程近いカルタゴにて
フェニキア人が新しい文明を起こし発展していきました
ローマ人がカルタゴに入植した後は
シディ・ブサイドにもローマの街が築かれました
その後アラブ勢力がチュニジアの地に侵攻
当初シディ・ブサイドは北東部海岸の防衛の地に適しており
監視塔と灯台が造られたと言われています
ところで、シディ・ブサイドの名前の由来ですが…
伝説によると1270年フランス国王(聖ルイ9世王)が
十字軍を率いてのチュニス攻撃中に没したのですが
実は生きていてイスラム教徒に改宗、ブサイドと名前を変え
ベルベル人の娘と結婚し余生をこの地で暮らし
やがて聖人(シディ)となったことが由来という説
ちょっと信じられない(だから伝説?)
実際は違うようで1231年に没したスーフィー教の導師
聖者アブ・サイドが引退、シディ・ブサイドに移り住み
ここで埋葬されたのですが、彼の別名がブサイドであったため
そのまま彼の名前がこの土地に残ったと言われています
どちらにしても、なぜ青と白の街になったのかは不明…
青と白の街はギリシャのサントリーニ島のイア等にもありますが
ここは少しアラブテイストが入り複雑なニュアンス
20世紀以降、景観保護の政令により
無秩序な建物の建設が禁止され
青と白に統一されることとなったらしいのですが
こういった規制はシディ・ブサイドが世界で初だそう
大人買いしたいくらい美しい色のお皿達
欲しいけどガマンガマン
だらだらと上り坂のハビブ・タムール通り
一番高いところにあるのカフェ・デ・ナット
チュニジアの昔ながらのカフェで賑わっていました
カフェの右側の道をもう少し進みます
ブーゲンビリアのピンクやグリーンが
南国の街に色を添えます
街は決して大きくはないのでそろそろ端っこ
丘の上から地中海が見下ろせます
海を見ながらゆっくりできそうな
カフェ・シディ・シャバーンへ
あら~混んでるかもと思ったのは勘違い
ただただ入り口で観光客が普通に写真撮影中(; ・`д・´)
アルコールメニュは無しですヾ(。>﹏<。)ノ
イチゴとレモンのジュースだと
「酒と○○」シリーズはできないやんか(・`ε・´●)チェ
でも、と~っても濃厚で美味しいジュースでした
Cafe Sidi Chabaane
いや~、ココは楽しっ!
半日、いや一日ココでのんびりしていたかったあ
ランチはカルタゴ近くのシーフードレストラン
実はこの日、エジプトの民族衣装真っ青なガラベイヤを
着用しておりまして… オ恥ずかしながら自前っす
シディ・ブサイドでは妙に溶け込んでしまったのよ
もう、クタクタで喉カラカラ
ワイン一本いっとく\(^o^)/
チュニジアンサラダはツナがデフォ
ここでもタジンが出てきました
どんなお魚料理が出てくるのかな ドキドキ
ど~んとブイヤベースのようなオジャでした!
これが んまいのなんの
お魚は脂がのっていてフワッと仕上がっている白身
海老、つぶ貝のような貝も2つ…
そしてお決まりのピリ辛トマトソース
スプーン欲しかったなぁ~ 飲み干したかったお味
La Victoire
1 Avenue Franklin Roosvelt, La Goulette 2060, Tunisia
地中海貿易で栄えたカルタゴ、チュニスに程近い
チュニス湖東岸にあった古代都市国家
カルタゴの歴史は2800年前まで遡ることができ
伝説によるとフェニキア人の都市国家ティルスの王の妹
ディドン(放浪者)と呼ばれたエリッサが建設した
…とされていますが、確証ありません
カルタゴの名前はフェニキア語のカルト・ハダシュト
(Kart Hadasht=「新しい町」)に由来するそうです
ちなみにチュニジア政府は1987年に「カルタゴ建国2800年祭」を
開催、紀元前814年がカルタゴ建国年と見なされています
1979年世界遺産に登録されています
カルタゴの遺跡は点在していまして…
まず向かったのはローマによって滅ぼされてしまった
フェニキア人によるカルタゴ市の中心があったピュルサの丘
ピュルサの名前の由来は王女エリッサの機知を物語っているそう
この土地に街を建設する際、先の住人は牛の皮(ピュルサ)
一枚で覆われる土地しか譲れないと言われ了承
エリッサは1頭の牛を求め細く割き細い紐を作り
土地を囲いこの丘全体を手に入れたのです 賢っ
遺跡にそびえるサン・ルイ教会(アクロポリウム)
最初に礼拝堂が置かれたのは1840年で
現在の大聖堂は1890年にフランスによって建てらたもの
1270年に第8回十字軍遠征に参加中に没したフランス国王
ルイ9世に捧げられたものです
紀元前264年から紀元前241年に起きた第一次ポエニ戦争は
シチリア島の支配を巡っての争いでローマの勝利に終わりました
紀元前219年から紀元前201年の第二次ポエニ戦争では
ハンニバルの善戦によってローマに迫りましたが
紀元前149年から紀元前146年の第三次ポエニ戦争で
カルタゴは3年間の籠城戦の後に陥落、街は完全に破壊され
塩で埋め尽くされ不毛の地になったそうです
一旦は廃墟になったカルタゴですが紀元前29年に
カエサルはカルタゴの再建を指示
その後アウグストゥスに引き継がれ
2世紀ごろにはローマ帝国第3の都市にまでなりました
ローマ帝国が衰退した5世紀にはゲルマン人が侵攻
カルタゴを首都としてバンダル王国を築きましたが
533年には東ローマ帝国のユスチニアヌス帝によって
バンダル王国は滅ぼされ再びローマの支配下に入り
7世紀になるとカイルアンに中心が移りカルタゴは衰退
…長い歴史です
カルタゴの遺跡のほとんどはローマ人の物ですが
ローマ人の遺跡の下にカルタゴ人の住居跡が
見つかっています …どれとは言えないけど
地下に広がる遺跡は当時に想いを馳せる
想像力が必要ですが…
地上に残るものには案外風景が見えてくる 気が…
住宅地の中にあるカルタゴの面影を残す数少ない遺跡
トフェ(タニト神の聖域)は、ポエミ時代には
墓場と火の神バール・ハモン神(フェニキアの古代宗教神)
天と豊穣の神タニト(カルタゴの守護神)が祀られた聖域
だったそうですが… 現在残る遺跡には
生贄とも考えられている幼児の骨が入った骨壺が
発掘されている墓石がずらりと並んでいるところ
さすがに写真を撮る気にはなれませんでした
チュニジアでよく見かけるタニト(Tanito)のシンボル
ただの池のようにしか見えないですが古代カルタゴの港
商業港と軍港に分かれていて
軍港は二重の防壁に囲まれていて直接海から
侵入できない造りになっていたそうです
発掘は遅れていて1970年代に入ってからとのことですが
港の小島ではローマ神殿などが発掘されているそうです
2世紀に五賢帝の一人アントニヌス・ピウス帝によって造られた
海を背景にした共同大浴場(テルマエ)
当時の建物は2階建てで更衣室、温浴風呂、水風呂
サウナ、プール、噴水、談話室、トイレなど
100を超える部屋が左右対称に配置されていたそうです
輸入された大理石がふんだんに使われ
華麗なレリーフが残されています
1階は冷浴室(フリギダリウム)で土台が海面から5.6m
円柱の高さは15m、ドームの天井高は30mもあったとか…
お隣が大統領官邸なので、写真撮影はお気をつけて!
向かって左側にちょっとでもカメラが向いちゃうと
カメラを取り上げられるとか… 警備員さんいます
柱のレリーフの部分がボコボコと無造作に置かれていて…
気持ちよさそうににゃんこが寛いでいました
チュニジアはとにもかくにもニャンコ天国でした
カルタゴのテルマエ遺跡で驚いたのが
3年ほど前にブルガリア・ルーマニアで出会った
友人と偶然の再会!! 声をかけていただいてびっくり!!
うれしい再会にしばししゃべりまくりっ
続きはこちら 9. ローマ遺跡ブラレジア ~世界遺産のドゥッガ遺跡
2018年10月:マグレブのチュニジア、地中海からサハラ砂漠への旅トップに戻る
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