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子育て記録~Parenting~

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August 22, 2007
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カテゴリ:3年生
殆どメモも取らずに帰ってきましたので、時間とともに忘れてしまいそうです。
取りあえず時間ができたら少しずつでも覚書に・・・。

『北野天満宮』

  菅原道真に関係ある場所ということで娘が足を運ぶ天満宮です。
学問の神といわれるのは、道真の父も優れた学者であり、道真もその子孫も優秀な学者でり道真の為に作られたものが天満宮であったからなのでしょうね。(多分)
北野天満宮には牛と梅が沢山目に付きます。

牛は、道真が生まれた年が丑年だったとも亡くなった時が丑の日だったとも、牛が道真を守ったとも…どれが本当でどれが異なるものなのかよくわかりませんが、そのような牛にまつわる言い伝えが多くあるため牛の像を多く置いてあるようです。

また、梅に関しては、道真が大宰府に送られるときに残した歌に「東風吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春な忘るな」(本によって最後の言葉は多少違っている場合があるようです)との和歌が残っていますので庭に綺麗な梅が植えられて大切にされていたのでしょうね?そのような事から梅が用いられているのかもしれません。

全国の天満宮は、道真死後に都に病気や御所に落雷が落ちたりする不幸は道真が濡れ衣により遠い大宰府で淋しく死んだ魂が怨念としてさまよっているから…みたいな?話が流れ全国に天満宮が作られ道真を天神として祀ったそうです。
道真は、代々学問に優れた家系だったらしく大伴家持などもおり、子孫には更級日記の作者もおります。(代々なんて羨ましい。そんな家に生まれてみたかったわ。笑)

なんだかんだと・・・結局優秀な家系って続くのね。(これは、母の感想。笑)

最後に百人一首にある道真の歌

「このたびは幣もとりあへず手向山もみぢの錦神のまにまに」

私は先の1首もあわせて、道真の歌を2首しか知りませんが百人一首の恋愛物の歌が多い中私はこの歌結構好きです。


菅原道真

祖父・父ともに文章博士を勤めた家系。
元々は中流の公家でしたが宇多天皇の信任を受け要職に就くようになったそうです。
藤原家の力が強くなってきている頃のお話です。
遣唐使を止めるように助言した人?依頼した人?(わかんね~笑)
その後、醍醐天皇にも仕えましたが、藤原時平と醍醐天皇の策略により?大宰府に下り、その地にて他界。
道真の死後、死を伴う病が流行し天皇の皇子が次々になくなったり、御所に落雷があったり、時平が短命だった事は、道真の怨霊だと言う事になり道真を祀る天満宮が建てられた。
天神さん、天神様などとも呼ばれる事が多い。
また、天満宮の「天満」は、道真に死後ついた「天満大自在天神」から来ているらしいです。


『平安神宮』

  平安遷都1100年を記念して当時天皇であった桓武天皇を祀る神社として建てられた建物です。(1895年明治28年)
因みに平安京で過ごした最後の天皇は孝明天皇です。
※桓武天皇皇居:平城宮・長岡宮・平安宮
※孝明天皇皇居:平安京・京都御所

私はもっと早い時期に立てられたものだとばかり思っておりました。(苦笑)



『方広寺』

  豊臣家滅亡のきっかけになった鐘があるお寺です。
この鐘に刻まれた「国家安康」「君臣豊楽」の文章に家康が「家」と「康」を分断し豊臣を君主とするものとの言いがかり?(笑)をつけて戦(大坂冬の陣)に突入です。
また、昔、このお寺には奈良の大仏よりも大きな大仏様が鎮座されていたようです。
が、徳川家康が天下を取った後に壊されたようです。
しかし、何故この鐘だけ残したのかが不思議です。


『豊国神社』

  豊臣秀吉が祭られている神社です。もともとは、阿弥陀ヶ峰の中腹に埋葬されたようですので、同じく阿弥陀ヶ峰の中腹に神社は立てられていた世らしいのですが、徳川家康が天下を取って後に壊されて今の場所に移されたようです。
豊国神社は全国に数箇所あり、その内のひとつになります。
京都では「とよくに」長浜では「ほうこく」金沢の「とよくに」(加賀藩の前田家が作った?

大阪の「ほうこく」、名古屋の「とよくに」と、秀吉と関係の深い場所にそれぞれ祭られているようですが、豊国の呼び名はそれぞれ「とよくに」「ほうこく」と違うようです。



『智積院』

  豊国神社と隣接するように立っているお寺です。
秀吉の子「鶴丸」の為に立てたお寺とも聞きますが、もともとは2つのお寺が一緒になったため複雑な歴史があるようです。
秀吉の逆鱗に触れ?たの?か?もともとのお寺は根来山であったらしいのですが秀吉に焼き払われたようです。
その後関が原で徳川が勝ち、豊国神社の土地などを切り取るようにして分け与え再建したのが現在の智積院のようです。
だから、秀吉に焼き落とされたのに秀吉の子を祀っているようです。。
(解釈違っていたらごめんなさい)



『三十三間堂』

  後白河上皇が平清盛に命じて自身の離宮内に立てさせたものらしいです。
この、後白河上皇は娘曰く「平清盛を随分利用したのに源氏に倒させるように仕向けた張本人」らしいです。(本当?)
1001体の観音像などが祀られております。
過去に火災にあい、当時の仏像がまるごと残っているわけではないようです。
弓の競技で有名です。(競技名は忘れました。笑)


『養源院』

  淀君が父(浅井長政)を供養したいと秀吉に申し出て立てさせたお寺です。
後に火災にあいましたが、徳川秀忠にお輿入れしていたおごう(ミニ曰く、淀君の妹らしいです。)が、伏見桃山城の一部を使用して再建したそうです。
このお寺には、血の天井板と呼ばれるものがあるのですが・・・それをみるのは怖いといわれて天井板は見ることが出来ませんでした。
三十三間堂の真正面にあるお寺です。
  

『豊国廟』

  秀吉のお墓があるところです。
智積院と豊国神社の間の道(京女の坂道です。大学のお隣になります。)を上った突き当たりです。

『高台寺』
『圓徳院(えんとくいん)』

5月の旅行日記に多少記入した覚えが・・・。


『六条河原』



  処刑場・古戦場として名前をよく聞くところです。
今は、普通に川です。
現在は道(土手部分)が高くなっておりますので河原は見辛いのですが、昔はもっと土手が低かったのでしょうか?それとももっと川の幅が広く取られて広場のような場所になっていたのでしょうか?
テレビなどで見ると処刑を見に来ている人がいますが現在の状況だと無理かな?

娘的に一番印象が深く残っている処刑された人は明智光秀。
その昔、名前は忘れましたが合戦場にもなったところらしいです。

その他処刑された中に、豊臣秀頼の息子(当時6~7歳)国松が処刑されたそうです。
6~7歳か~・・・。。。年長さんじゃないの。。。残酷すぎる。。。

なんと残酷非道な・・・と、思いますが、娘の話を聞いていると平清盛などは、源氏の子供たちに情けを掛けて生かしておいたために倒された可能性があるとの事。
ま~確かに相なんでしょうが・・・・。
それを聞いてもなんとなくやっぱり野蛮・・・って。7歳児くらいなら自分の手元で育てて後ろ盾する人を近づけなければ良いんじゃないの?などとどっちが親か無いような会話をしておりました。(笑)







『壬生寺』


『本能寺跡』

現在の本能寺は織田信長が暗殺された場所にはありません。
四条大宮の駅から徒歩で5分程度?のところにあります。
今は石の1m程度の柱に刻まれている「本能寺跡」以外はその名残は見当たりません。
近くには名前は忘れましたが、小さなお寺が3件ほどあります。
ゆかりのある寺なのかどうかは訪ねていきませんでしたので不明です。


『二条城』

  前回の旅行記に詳細記入済み


『醍醐寺』

  豊臣秀吉の花見が開かれたことで有名なことろです。現在、桜があった場所は空き地になっており、当時咲いていた桜は醍醐寺の庭に移されております。(醍醐の花見)
名前から想像できる通り醍醐天皇が庇護しかつては、広大な土地を有し発展していた時期もあるらしいです。(寺の名前の由来に天皇が直接関係有るかどうかは分かりません)
現在も五重塔を初め多くの古い建物が残っているようですが、説明の看板をよく読みませんでしたので醍醐天皇の時代のものかどうかは定かでは有りません。
もしかすると古そうにみえても秀吉の時代のものかもしれません。


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Last updated  August 27, 2007 01:57:57 PM



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