平等院(藤原・紫式部)
※字数の問題で一箇所に書ききれず(文章をまとめる力がないだけです。(笑)前回の日記を分割することにしただけですので…。『平等院』 場所は、京都の宇治にあります。宇治は、平安時代の貴族の別荘が多くあったとされています。ここも元々は源重信の別荘だったらしいです。(詳しくは忘れました)それを藤原道長が譲り受け、後にこの地を受け継いだ子供の頼道が寺に変えたようです。10円玉の表の絵として日本人に一番身近な国宝だと思います。因みに10円玉に描かれているのが鳳凰堂です。現在鳳凰堂の上にある鳳凰像は複製で本物は展示室に飾られております。お寺などの上に飾られているものの多くには左右で男女の区別があるものが多く存在しているようですが、こちらの鳳凰像には、性別は無いそうです。娘曰く・・・「ママ、おかまって事?」と・・・説明をしてくださった係りの方がまだ近くにいらっしゃったのでちょっと恥ずかしかったです。また、この鳳凰像はもともと金であったとされております。また、資料館のところに書きました天蓋なども全て金で装飾されており当時は本当に華やかであったろうと思われます。 鳳凰堂の中には、入れなかったのですが、復元映像がこの後の項目にある資料館で見ることが出来ます。平安神宮や三十三間堂のイメージをもしも出来るようであれば、その華やかな朱色や濃い紅色が多く使われたものを想像していただければ、イメージ的にはほぼ同じかと思います。それらのどれよりも豪華であったであろうとは思われます。黄金の仏像とそれを結ぶ黄金の豪奢な天蓋、遊戯をしておられている様子の黄金の像が数十体。明かりが少ない時代であってもこの黄金と白や紅や明るい藍で飾られたお堂ないは上手に反射効果を使って光を取り入れられていたのではないかとのお話でした。また、当時はかなり広域に整理されていたらしく、平等院を中心に多くのお堂や塔なども配置され、その周りを美しく塀で囲み、きっと今の時代であればTDLのように貴族の一大アミューズメントパーク状態だったのでは?と思います(笑)(←これは私の単なる想像。話は少しずれますが・・・。今回、平等院を訪れたのは、勿論有名な建造物であるからでもありますが・・・。先に名前が出ていた藤原道長が紫式部の書いた源氏物語の源氏のモデルであったのでは?との説を娘が信じている為、藤原道長と紫式部の縁の地ということで訪れました。ただし、この「モデルであったのでは?」の説には他にも同様の説が他の人物でも沢山あり、道長が有力な候補であるわけではありません。たまたま娘の読んだものにそのように書かれていたようです。また、道長が源氏物語を一番最初に読んだ人物だと書いている本もあるようです。いずれも何らかの根拠があって本に書かれているのでしょうが、定かではありません。ここでついでに藤原の話を簡単に・・・。(間違えていたら教えて下さい)最初に出てきた『藤原道長』は『藤原兼家』の息子です。兼家には、他にも道隆・道兼など歴史にでてくる息子たちがいます。余り歴史に詳しくない私ですが、兼家には道綱という息子もいるようです。 この、道綱の母こそがあの蜻蛉日記の作者です。私などは歴史の出来事には疎い為、藤原兼家といえば蜻蛉日記のほうを思い出します。(笑) ただ、余り興味のない藤原家だったのですが、娘が歴史マンガを無理やり貸してくれるので読んでみると、とても面白い一族のようです。兼家は兄弟仲があまりよろしくなかったようでして兄弟で出世を競争しているときに病気に臥せた兄の家に向かって弟の兼家が車を走らせる(感動!)それを家人から伝え聞いた兄は、仲が悪くともやはり兄弟!と感動!して待ち受けていると・・・。弟(兼家)は、兄の屋敷の前を素通りして御所の方へ行ってしまうのです。それを知った兄(兼道)は逆上して病身を押して参内し関白を弟の道長に譲らず他のものに譲ったとの話が乗っておりました。また、兼家が出世街道に乗り始めた頃の天皇が籠愛していた女御が亡くなった事を悲しんでいるのを逆手に取り出家を進めたそうです。(紫式部のところでもう一度この天皇の話がでてきます)その天皇が出家すれば次期天皇に自分の娘が生んだ皇子(東宮)を天皇に立てられると考えたからです。(笑)出家を進め自分(兼家の息子)もお供するといい、天皇をそっと御所を抜け出させ出家させたのですが、息子のほうは(出家前の姿を最後に父に見せたいとなどと言い訳して)とっとと逃げ帰ったとか・・・。当時は、笑い話ではなかったでしょうが、今知るとなんともドタバタと面白い(笑)話が少し前後しますが、孫にあたる親王が東宮になる前にも、娘を中宮にしてほしいと願っていたのが敵わず、そのためにふて腐れて三条のお屋敷に親王ともども引き連れて引き篭もり参内をせず、当時の天皇がいよいよ親王あいたさに東宮にさせるとの話まで引き出されるような件があり、笑えます。事実はもっとドロドロとした話なのかもしれませんが、子供向けに書かれた本ですから、面白可笑しくかかれておりますので歴史が苦手でも興味があれば一度ご覧になってみると面白いかもしれません、殆ど漫才の世界です。(笑)しかし、個人的な感想をいわせていただくと私の様に捻りのない(面白味のない)人間からすすと藤原兼家や道長は賢すぎて話の流れについていけず(あまりにも姑息で)好みではありません(笑)多分これも読む本によって感じ方が違ってくるかもしれませんので、後に気持ちが変わるかもしれませんね。最後に藤原道長の有名な歌を1つ『この世をばわが世とぞ思ふ 望月の欠けたることもなしと思えば』この歌は、道長の書いた日記には残しておらず、あまり反りが合わなかったと思われる実資の日記に書き残されて後世に残ったようです。これを1人月を見ながら或いは身近な人との間で読んだのであれば、満足してたのね~くらいで終らせますが、実資(道長とは仲は良かったわけではない。が、息子頼道とは交流が深かったらしい)が日記に書いているところによると公卿を集めての宴会で読まれたそうですので何とも傲慢な方だったのかもしれませんね。本来は他にも多くの功績を残されている方なのでしょうが、母の記憶に残ったのはこれだけです。(勿論年号も頭に入っておりません。爆)『平等院資料館』 現在100年に一度の改修工事をしているようです。外観は修理の為綺麗に全部見ることはできませんが、その代わりに天蓋など普段間近でみることが出来ないものをこの資料館で現在見ることができました。次回みられるのは100年後とあってか?娘は必死にみておりました。『宇治上神社』 平等院と源氏ミュージアムの間にあります。詳しくは…分りません。(笑)『宇治源氏物語ミュージアム』 紫式部の源氏物語のミュージアムです。土地柄か?宇治で入水した浮船の映画が上映されておりました。コンパクトなミュージアムですが、人形の展示などがあり華やかではあります。しかし、紫式部の資料などがなかったのがちょっと残念だったようです。※映画は20分ほどですので娘は2回も連続でみておりました。『紫式部』について少しだけ…。娘の話なので間違えて覚えたものを聞いているかもしれません。源氏物語の作者として有名な女性作家。百人一首では「めぐりあひて見しやそれおともわかぬまに 雲がくれにし夜半の月かな」の歌が選ばれている。娘が一番始めに覚えたのもこの式部の歌でした。学校で何か一首覚えてくるように言われた時に、何を覚えようか?って聞かれた為、単純に娘が知っている作者で歌の意味も知っているであろう物というので勧めたところ、もともと紫式部の本をよみ多少の興味は持っていたようなのですが、今まで以上に興味を持ったようです。母にはピンときませんが、娘的に百人一首に含まれている人!って事で紫式部の格があがったようです。(爆)式部の父は花山天皇(ほら!?兼家親子に出家させられた天皇!笑)に仕えていた方らしいのですが、天皇の出家と同時に職を失ったようです。その後、道長の娘中宮彰子(一条天皇)に使えていたようです。今回京都の御所に行ったのは、数々の天皇がすごしたところだから(本当は現京都御所で過ごされた天皇は2天皇のみで建築も比較的新しいものです。)と、紫式部も中宮に仕えていたのだから御所に行けば式部のいた部屋がみられるかも~!と、娘が言い出したためであります。(見られないって…。苦笑)京都には、式部が源氏物語の後半を書いた場所とされるところやお墓だといわれる場所がありますが、今回は時間が足りず立ち寄っておりません。