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カテゴリ:お出かけ
群馬県での撮影旅の続きです。
松井田でSLを撮った後は、富岡へ向かいました。 富岡と言えば、そう、皆さまもよく御存じの富岡製糸場があるところですね。 富岡製糸場パンフレット posted by (C)Nao せっかく富岡まできたので、その明治の遺構を訪ねてみることにしました。 それでは、撮影した写真とともに、富岡製糸場の歴史などをご紹介しましょう。 (写真をクリックすると、その写真の説明もご覧いただけます。) 富岡製糸場1 posted by (C)Nao さて、時は明治維新を過ぎてまだ間もない頃にまで遡ります。 当時、殖産興業を掲げていた政府は、輸出品の要であった絹(生糸)の品質改良と大量生産に取り組んでいました。 富岡製糸場2 posted by (C)Nao そして外国産の絹に対抗するためには、大規模な機械を装備した近代的な製糸工場を稼動させ、製品の量・質ともに高めていくことが必要だと考えるようになったのです。 富岡製糸場3 posted by (C)Nao 政府は、フランス・リヨンの商社の横浜駐在員であったフランス人技師ポール・ブリューナ(Paul Brunat)らの指導で、フランスから繰糸機や蒸気機関等を輸入し、ここ富岡に日本初の機械製糸工場を計画します。 富岡製糸場4 posted by (C)Nao こうして明治5年10月4日(1872年11月4日)、富岡製糸場は日本で最初の官営模範工場として操業を開始しました。 富岡製糸場7 posted by (C)Nao この工場は、当時世界でも有数の規模を誇っていて、数百人の若い工女が日本全国から集められました。その中には、後に工女の日常を記した「富岡日記」の著者である和田英らもいました。 富岡製糸場8 posted by (C)Nao 工女の労働環境は充実していたようで、ここは、後に日本全国に建設された製糸工場に繰糸の方法を伝授する役割も果たしたそうです。そうして明治8年には日本人による操業が始まります。 富岡製糸場10 posted by (C)Nao やがて富岡製糸場に転機が訪れます。 官営工業の払い下げ令により、明治26年(1893年)に三井家へ払い下げられたのです。 富岡製糸場5 posted by (C)Nao 時は流れて、明治35年(1902年)には横浜の生糸商原合名会社(原富太郎)に渡り、昭和14年(1939年)に片倉製糸紡績会社(片倉工業)の所有となりますが、昭和62年(1987年)までの約115年にわたり操業は続きました。 富岡製糸場9 posted by (C)Nao 日本の工業の礎を築いたこの富岡製糸場も、その長い役目を終えて、今は富岡市に移管されて、こうして一般に公開されています。 操業当時のまま保存された遺構は、明治の日本の近代化をしのぶ貴重な歴史の生き証人として、世界遺産の登録を目指しているんだそうです。 富岡製糸場12(絵画調) posted by (C)Nao その富岡製糸場にまつわるエピソードをいくつかご紹介しましょう。 まず、日本で最初の製糸工場は、なぜ富岡に建設されたのでしょうか。 富岡製糸場14(絵画調) posted by (C)Nao 答えは、養蚕が盛んだったこと、工場の広い用地が確保できたこと、外国人指導の工場建設に住民がどうしたこと、製糸に必要な大量の用水が確保できること、燃料の石炭の調達が高崎から調達できること、などが工場建設に適していたためだそうです。 富岡製糸場13(絵画調) posted by (C)Nao それでは次に、富岡製糸場で働いたのは、全国から集められた工女たちでしたが、当初は募集を出してもなかなか人が集まらなかったそうです。それはなぜだったのでしょう。 富岡製糸場11 posted by (C)Nao それは当時の人々が、フランス人の飲むワインを血と思いこみ、「富岡製糸場では生き血を吸い取られる」というデマが流れたためだそうです。 もちろんそんなことはなく、政府が懸命に説明した結果、工女は集まったそうです。 さて、富岡製糸場の歴史をご紹介してきましたが、いかがでしたか。 それでは少し富岡の街を歩いて、ここを走る上信電鉄を見てみましょう。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Sep 25, 2013 08:31:01 PM
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