父が切望した「そうだよね」
私が父を嫌っていた理由のひとつに「細かい」というのがある。父はある意味”天才肌”で、いわゆる「解像度が高い人」なのかもしれないが、動作ひとつ、単語ひとつに過敏な人で、亡母もよく愚痴をこぼしていた。そんな父が、あるとき会話の途中で「返事するときは、”そうね”より、”そうだよね”のほうがいいよ。」はぁ?なに言ってんだこのジジイ!!確かに「そうね」には異論の余地も残ってる印象があるけど、ってそんなことまで気にして親と会話するこっちの身にもなれっつーの!(←脳みそ夫)しかし、父の得体の知れない欠乏感の影響を強く受けて育った私も、そういう要求に答えないと自分の存在価値を認めてもらえないという欠乏感を無意識に持っていたので、嫌々ながらもそれに従うことになるのだが、親をゆるす視点から見たときに、「そうだよね」という言葉は父が親(私の祖父母)から言ってほしかったものだったと気づいた。すると、目の前にいるのは、80をとっくに過ぎた老人ではなく、”親に関心を持ってもらいたいのに、親は自分を認めてくれない”と途方に暮れている少年の父の姿に変わった。それ以来、父は私の言動にあまり異議を唱えなくなった。