昔、ピアサポーターとして障碍者の子供(自分)が遺された時の事を講演した
久しぶりの更新。精神障碍者としてピアサポーターと言われる活動をしていた時に、作業所から参加した集まり、イベントで主治医(たまたまだったのか私の主治医だった人も講演者だった)と他にもう一名だったかで合わせて3名か4名が講演をした時の事を思い出して書いてみている。私も講演する側の人間として参加してのだが。今、振り返ってみて言葉足らずだった多くの事を想う。ちなみに主題というのは親を亡くした障碍者。私は母親を震災で亡くした。想い出すのは、きれいな母の遺体。「胸部圧迫」と言う死亡診断書だった。瓦葺の長屋のような古い木造住宅。一階に住んでいて私自身8時間以上埋まっていた。横の部屋で寝ていた母親。その前夜だったと記憶しているが「寝られてるのかな?」とふと疑問に思った。私が抜け出た時には既に母は他の場所に移動されていた。グラッと来て数秒、「おふくろー」と叫んで答えが返ってこず「ちくしょー」と吠えた記憶。結局、母は絶対にその遺志にそぐわない「自衛隊による運搬」で、隣県の焼き場に連れていかれバスで同行した私には焼き場での記憶がない。母親の田舎にいる叔母に連絡が取れ来てくれはしたが、私は精神病院へと一緒に受診に、そして叔母は「この子を何とか」と、、、、、まぁ、それに対して「仮設住宅が当たれば入居、外れれば入院」と答えた私も、それに応じた主治医も、全員おかしかったと今では思える。主治医は私の講演の時、涙流すのを耐えるのに、苦労したと言ってくれたが。講演では、全てが意のままには進んでいなかった事を言えなかった。そして、震災、障碍者、、これらが、ほぼ全て事を意のままには進ませない。行政もまた、助けにはならず、、、思い出すのは、講演の時に語った「金銭の問題」だったりなのだが、果たして、母親の遺したお金、ちゃんと私は回収できたのか?行政は「弔慰金」とか貸付とか、保健に入ってると死亡時に貰えるお金とか、確か「8万円」とか、、だけで、個人の資産は管理はしてないだろうからなのだろう、手助けは何もなく。記憶にあった簡易保険の受取だけ、、、って、どうも今から思うと何かが違っていて銀行にも当然お金は残っていたりするのはもう時効というのか「国庫金」とやらに組み入れられてる頃。結局私は貸付金があると聞いた知人と始めた金融の仕事をあっという間にダメにして、、、後に犯罪に巻き込まれた。馬鹿な息子。まぁ、自分が馬鹿で良くはない人間だというのは、それとして。なんだろう、、、行政って結局役に立たない。それどころか、死者の意志に反しての行いをする。最近は、私は病院も含めた警察も含めた行政(防衛軍も含み)に対する不信と言うか、彼らが何をしたか?をちょくちょく考える。震災と言う災難の中でそれぞれが機能できなかったと言うのは有ったとは思うが。震災を別にしても、、、、、兵庫防災システム(フェニックス)と言う当時最新のOS(Win95)で作られたシステムのバグだしという仕事をしたりしたが、、、あれって何だったんだろうと今神戸の状況を見て思う。津波を伴う震災、、、それに対して神戸は?津波が来たらあれだけの高層の方が助かるのだろうかと言うビルが岸壁すぐ近くに立ち、地下鉄や街道を抜ける道、、山を越す道、、そこに対して地震が来たら?鉄塔や電信柱、、、山を越えた北でも、、、神戸は何を学んだ?私は行政はお金だけはくれる、、そんな存在に、、、そして、もう死んだ母親。その遺志。それは踏みにじられていた。今になって、バカ息子はそれに気づいて、そして、やっぱり何も出来ず、馬鹿息子のまま。私はきっとろくな死に方をしない。好きな女、その家族ともちゃんと交流できず、そして今は会えず、連絡も取れない。ろくな男じゃない、、そんな自分の自業自得か。。。。。。昔、母がガラス瓶と保冷剤を用意して私のこめかみにその瓶で殴ってきたことがあった。保令剤は私の頭を冷やすため。「たたいたらええんよ、って言われた」と言っていた母。おかしな出来事、、私が110番したのに連れていかれた精神病院。そこで、何人がかりで私を押さえつけに来たのか?労役所に入ったことがある。単車のスピード違反だったかの違反金を払わずに。そこでは、20人以上?の刑務官?にかつぎあげられかいだんをぐるぐるあがり「保護室?」に放り込まれた。最近は和歌山で道端それも歩道の端に横になっていたらパトカーが来て結局逆さづりに(足を持たれて)パトカーに押し込められた。また、保護室?。。。。そしてこないだ、、、神社での出来事、、、神社、、、あれで、、、良いと思ってる年齢なのか?と疑える年齢の警察官も、、、二度目の顔合わせだったか。やっぱり「強制的に」保護?室。。。。思い出すのは他にも病院での様々な事。コロナ、騒動ということで、、、、志村けんさんが亡くなってその遺族がテレビに出ていた。医者って何?警察って何?(実は私の小さな頃に別れた父親は警察官だが)行政って何?って、そんな想いが。。。結局、私の母親はその遺志にはそぐわない「葬儀」とか、、、だった。私は自分をどうしようもない男だと自認してはいるが、それ以上にあいつらはどうしようもない奴ら、これは一応主治医と思ってる精神科医も含めてどうしようもないのは行政も含めたあいつらだと。何よりも私は、警察官だった父親もガラス瓶でどついてきた母親も含めて思っていて死んだ今も別れた今も「自営軍」とか、寺社、、それらを汚す何かそれらを何よりも「想う」そう「想う」3歳ほどで別れた父親の事など解るはずない?ガラス瓶でどついてくるような母親の事。それでも私は両親の本当の想い。それを、想う。日本という国は、、、江戸時代という200年ほどの腐った時代を抜けそして軍国へと。母は大正の終わりに生まれた。尋常小学校、、奉公、、軍人の家でのそれ、、、殆ど私に記憶がないが、昔から母と父には様々な事を聞いていた筈。私自身普通の子供とは呼べない子供だったと思う。歩いた距離とか、今の時代とその年齢として比べて普通じゃなかったし、今でも自分ながらどこかおかしい。って、和歌山で、とか丸一日ほとんど何も食べず歩いたり。子供時代、記憶がほとんど無かったりするが。まぁ、三歳とかの頃、、うちは結構裕福な家庭だった筈。あの時代で出来る、、贅沢、それをしていたりと言うほのかな記憶。ファミリアって神戸では有名な子供服の店、、ちょくちょく行っていたり幼稚園の制服、、、神戸デパート、そこでの机のモデル?そして震災の時私を助けてくれたと想えた母親の鏡台。造り、、それは当時(60年程前)としてはそこそこ、、だったかもって、一級品、今では殆ど無いような、、と言うほどでもないけど。有る所にはもっと良い物は有るだろうが。、、ってただ鏡台だけではなくもっと多くの家具も有った筈。かすかに残っている加納町付近での事。あの頃から。灘に母子家庭として移住した頃から。バカ息子は、母親を守れずその遺志も、、、行政。それは頼りにはならない。なのに、、、、