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2023.07.01
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2023年6月17日、名古屋城に行き、刻銘石と加藤清正の石曳像を見ました。

↓ 名古屋城入口。






↓ 特別史跡 名古屋城
名古屋城は、御三家筆頭尾張徳川家の居城であり、初代の城主は、江戸幕府を開いた徳川家康の第九男義直です。慶長14年(1609)、家康みずから築城を決定し、翌15年に石垣普請が着工され、1617年に大小の天守や各櫓が完成しました。普請を命じられたのは加藤清正ら西国の大名20名で、城内の石垣には目印として各大名が刻んだ刻印が多数残っている。
慶長20年(1615)に本丸御殿、元和3年(1617)には二之丸御殿が完成し、二之丸御殿、御深井御庭なども整備され、名古屋城は天下の名城としてその名をとどろかせました。
明治維新後、名古屋城は陸軍省の所管となり、名古屋鎮台司令部や兵舎がおかれましたが、明治26年(1893年)に宮内省に移管され「名古屋離宮」となりました。昭和5年(1930年)12月、名古屋市に下賜されると同時に国宝に指定され、翌年から一般公開が始まりました。昭和7年(1932年)には、名古屋城全体が特別史跡に指定されました。
昭和20年(1945年)5月、第二次世界大戦末期の空襲により、天守や本丸御殿など国宝建造物24棟が焼失しましたが、焼失を免れた3つの隅櫓と3つの門、空襲の直前にとりはずされていた本丸御殿障壁画1047面が、戦後重要文化財に指定されました。
昭和34年(1959)、天守閣と正門が、ほぼ昔通りの外観で再建されました。
平成21年(2009)には本丸御殿の復元工事が始まり、平成25年(2013年)に玄関・表書院部分が完成しました。現在も、平成30年(2018)の全体完成をめざし工事が進められています。




↓ 消失前の名古屋城本丸御殿と天守閣。




↓ 名古屋城正門(旧榎多門)
ここにはかつて、榎多門(えのきだもん)と呼ばれる櫓門(やぐらもん)がありました。南側に「冠木門」(かぶきもん)と呼ばれる外門、北側と西側の石垣上には多門櫓(たもんやぐら)(長屋状の櫓)が建てられていました。内門の榎多門とあわせて、防御力の高い城郭の出入口である、桝形虎口(ますがたこぐち)が形成されていました。榎多門は明治24年(1891)の濃尾地震で大破し、代わりに明治44年、旧江戸城から蓮池門(はすいけもん)(元禄17年・1704年ごろ建築)が移築され、石垣も組み直されました。国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945)の空襲で焼失しました。現在の正面は昭和34年に、旧蓮池門を鉄筋コンクリート造で、外観復元したものです。



↓ 明治12年(1879)~24年撮影。手前が通称「冠木門」、この内部が現在地である。




↓ 大正2年(1913)撮影。蓮池門の移築後。周辺は陸軍用地であったため、軍用機が上空を飛ぶこともあった。





↓ 名古屋城 入場券販売所。



↓ 名古屋城正門 (旧榎田門)












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↓ 刻銘石
この石は、名古屋城の普請(土木工事)に従事した(西国)20大名のうち、筑後藩主田中忠政(福岡県柳川)が担当した丁場の大手桝形石垣に使用された物です。380有余年前、石垣構築に心血を注いだ大名たちの労苦のほどを窺い知ることができます。

刻銘 「た中ちくこ守石」(田中筑後守石)
総重量 :約2.5屯(トン)
石の種類:花崗岩
設置  :平成8年8月8日

*石の端の部分に、石を割るために彫った「矢穴」が連続して見える。





↓特別史跡 名古屋城 絵地図。



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↓ 加藤清正公 石曳きの像




↓ 清正の石曳(きよまさのいしひき)
天守の石垣普請は、加藤清正に割り当てられた。巨石を運ぶにあたり、清正自ら石の上に乗り音頭をとったと伝えられている。本像は、その様子を模したもの。


↓ 清正公石曳きの像。








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最終更新日  2023.10.01 21:40:00
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