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2023.10.01
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2018年2月10日、肥前名護屋城を見に行きました。

この城は、豊臣秀吉が朝鮮出兵をするための前線基地として、天正19年(1591年)、肥前名護屋の地に城を築きました。わずか5カ月で築城されたと言われ、全国から集まった諸大名の陣屋が130以上も建てられました。
当時の大阪城に次ぐ大規模な城で、人口20万人を越える城下町が出現したそうです。
豊臣秀吉は1592年(文禄元年)、1597年(慶長2年)に朝鮮派兵を行い、文禄の役、慶長の役と呼ばれています。1598年に豊臣秀吉が病死し、兵は撤退となりました。

歴史は好きで、学生時代から本をよく読んでいました。特に司馬遼太郎さんの本は大好きでした。
私が肥前名護屋城を訪れた時も、司馬遼太郎さんの本を複数冊持っていきました。
NHK大河ドラマ「どうする家康」を見ていると、豊臣秀吉の朝鮮出兵について放送されるとの事で、肥前名護屋城で撮った写真と、手元にある本を読み直しています。

手元にある資料本を一部紹介します。
(司馬遼太郎さんの本については、次回に紹介予定です)

ーーーーーーーーーーーー
詳説日本史 改訂版 2012年3月5日発行/石井進・五味文彦・笹山晴生・高埜利彦(ほか9名)/山川出版社。
(長男が高校を卒業するときに、いらないと言ったので、私が資料としてもらった)。



↓ P155 秀吉の対外政策と朝鮮侵略。
1587(天正15)年、秀吉は対馬の宗氏を通じて、朝鮮に対し入貢と明へ出兵するための先導を求めた。朝鮮がこれを拒否すると、秀吉は肥前の名護屋に本陣をきずき、1592(文禄元)年、15万余りの大軍を朝鮮に派兵した(文禄の役)。
釜山に上陸した日本軍は、鉄砲の威力などによってまもなく漢城(現、ソウル)・平壌(現、ピョンヤン)を占領したが、李舜臣のひきいる朝鮮水軍の活躍や朝鮮義兵の抵抗、明の援軍などにより、しだいに戦局は不利になった。そのため現地の日本軍は休戦し、秀吉に明との講和を求めたが、秀吉が強硬な姿勢を取り続けたため交渉は決裂した。*

*1593(文禄2)年からはじまった和平交渉では、和平の実現を急ぐ現地の武将たちの判断で、明の降伏や朝鮮南部の割譲などを求めた秀吉の要求は明側に伝えられなかった。その結果、明は1596年に使者を派遣し、秀吉を「日本国王」に封じ、その朝貢を許すという態度をとったので、交渉は決裂した。



↓P155 文禄・慶長の役要図。


↓ p156
1597(慶長2)年、秀吉はふたたび朝鮮に14万余りの兵をおくったが(慶長の役)、日本軍は最初から苦戦をしいられ、翌年秀吉が病死すると撤兵した。前後7年におよぶ日本軍の朝鮮侵略は、朝鮮の人を戦火にまき込み、多くの被害をあたえた。また、国内的には、ぼう大な戦費と兵力を無駄についやす結果となり、豊臣政権を衰退させる原因となった。



ーーーーーーーーーーーー
新編 史料日本史/東京法令出版。
(これも長男からもらった)



↓ p204~205
【秀吉の侵略計画】
それから(以下のように)語った。予もすでに(最高の)地位に達し、日本全国を帰服せしめたうえは、もはや領国も金も銀もこれ以上獲得しようとは思わぬし、その他何ものも欲しくない。ただ予の名声と権勢を死後に伝えしめることを望むのみである。日本国内を無事安穏に統治したく、それが実現したうえは、この(日本)国を弟の美濃殿(羽柴秀長)に譲り、予自らは専心して朝鮮とシナを征服することに従事したい。それゆえその準備として大軍を渡海させるために(目下)2千隻の船舶を建造するために木材を伐採せしめている。なお予として伴天連らに対して、十分に艤装した2隻の大型ナウ(ポルトガルの3本マストの帆船)を斡旋してもらいたい(と願う)他、援助を求めるつもりはない。
『フロイス 日本史』





↓ p206
鼻の請取状ー秀吉の朝鮮侵略
「昨今の首代鼻九捨(90)、慥か(たしか)に請取り申候。恐々謹言。八月廿一日(21日)」

この史料は、鍋島家文書中の慶長の役の際の鼻の請取状の一部である。秀吉は、首の代わりに鼻を切って送ることを命じ、判明する限り吉川氏18,350、鍋島氏10,901に及んでいる。また、日本に連行された捕虜も2万から3万に及び、特に陶工の連行により有田焼や薩摩焼が始まった。朝鮮の建造物や文化財の破壊・略奪も著しく、朝鮮民族にとってこの侵略は「壬辰の悪夢」として深く心の傷となり残っていくのである。




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クロニック 世界全史/講談社/1994年11月15日第1刷発行。
結婚するとき、妻に買ってもらった本。


p477
1592年6月4日、(朝鮮は)日本軍の来襲を迎えた。これが朝鮮で壬辰倭乱、日本で文禄の役とよばれる秀吉の朝鮮出兵の始まりである。
~多数の鉄砲を装備し陸戦にまさる日本軍のまえに、朝鮮軍は敗退をかさね、開戦から20日ばかりで首都漢城(ソウル)は陥落、さらに北上をゆるして小西行長に平壤を奪われ、加藤清正には北東国境の豆満江近くまで進出され2王子が捕らえられた。北西国境の鴨緑江岸の義州まで落ちのびた(朝鮮王)宣祖は宗王国の明に援助を求め、朝鮮の国土は日明両軍の戦場と化していた。

~ 1592年8月14日、釜山南西の閑山島の沖合で、李舜臣の率いる朝鮮艦隊が、豊臣秀吉の派遣した日本水軍を撃破し、制海権を奪回した。さる8月5日、秀吉が水軍に出撃命令を発したのに応じ、脇坂安治の船団60余隻が釜山の西の熊川を出港した。一方の李舜臣は、前日、朝鮮南西部の根拠地麗川を進発し、この日、釜山南西の巨済島と固城半島のあいだの水道で脇坂船団と遭遇、暗渠の多い閑山島沖に巧みに誘い出して39隻を撃破した。



↓ 陥落寸前の東來城。釜山に上陸した小西行長率いる日本軍は、その北にある朝鮮南岸の守りの
かなめ東來城を1日で陥落させた。銃をかついだ日本兵が多数とりかこみ、戦力の差は歴然としている。



↓ 亀甲船を中心に鶴翼の陣をしく李舜臣の艦隊。上部を厚板で覆い、鋭い鉄剣を前面に植え付けた亀甲船は、船首から煙幕を吐き、舷側からは大砲を放った。帆走のほか、櫂でこぐこともできた。



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「肥前名護屋城図屏風」の世界/佐賀県立名護屋城博物館。
2つの「肥前名護屋城図屏風」の詳しい紹介がなされている。


①名護屋城博物館所蔵本「佐賀県重要文化財」6曲1隻 本紙157x350cm




②群馬県個人所蔵本 6曲1双 本紙168x380cm。


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↓ 佐賀県立名護屋城博物館 パンフレット


↓ 名護屋城跡探訪マップ。


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↓ 肥前名護屋城/肥前名護屋城歴史ツーリズム協議会


↓ 陣跡めぐりマップ。








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↓ 呼子エリア観光マップ。


↓ 伊達政宗陣跡、黒田長政陣跡の位置。



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↓ 文禄・慶長の役 空虚なる御陣/上垣外憲一/講談社学術文庫
この本を読むと、この戦いの経過がとても良くわかる。
「秀吉の朝鮮出兵はなぜ行われ、何を残したのか。日朝双方の史料の精密な読み込みを通じて鮮やかに描き出される、戦いにいたる交渉過程と苛烈な戦闘、戦後処理の実状。そして、戦火と蛮行のはてに人々が見出した、友好の懸け橋・朱子学の可能性とは。近現代の日朝関係まで影を落とす「空虚」な戦争を、東アジア史の視座から問いなおす壮大な試み」




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↓ 現代語訳 三河物語/大久保彦左衛門/小林賢章訳/筑摩書房/ちくま学芸文庫。
p226「朝鮮出兵と秀吉の死」
文禄元年(1592)、高麗の戦といって、太閤は出陣し、名護屋(唐津市玄海市)に布陣。家康も名護屋におもむく。諸軍勢は高麗国に出発する。辰の年(1592)出陣なさり、午の年(1594)の3月ご帰国なさる。






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最終更新日  2023.10.14 10:27:40
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