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2023.10.02
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2018年2月10日、肥前名護屋城を見に行きました。

前回のブログで、肥前名護屋城や文禄・慶長の役に関する手持ちの資料を紹介しましたが、今回はその続きで、私の本棚にある司馬遼太郎さんの本から紹介します。

司馬遼太郎さんの書かれる文章は、とても読みやすく、情景がありありと浮かんできます。色々な話題を紹介されており、勉強になります。

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↓ 関ケ原 上巻/司馬遼太郎/新潮社
p105~106
豊臣の天下が安定し、秀吉がついに外征をはじめ、家康をともなって、朝鮮渡海の大本営である肥前名護屋城に滞陣していたころ、退屈のあまり、仮装園遊会をもよおした。
瓜畑の上に仮装の町をつくり、旅籠、茶店なども建て、諸侯にも仮装をさせた。こういう遊びをする点では、秀吉は天才的な企画者であった。
会津若松92万石の蒲生少将氏郷(がもううじさと)が担い茶売り、旅の老僧が織田有楽斎(おだうらくさい)、五奉行のひとり前田玄以(まえだげんい)が、長身肥満のいかにも憎さげな尼姿、有馬則頼(ありまのりより)が「有馬の池坊」の宿のおやじ、丹波中納言豊臣秀保(とよとみひでやす)が漬けもの売り、旅籠屋のおやじが、秀吉近習の蒔田権佐(まきたごんのすけ)、その旅籠でさわがしく旅人をよびこんでいるのが、美人できこえた奥女中の藤壺(ふじつぼ)。
~秀吉自身が、怪しげな柿色の帷子(かたびら)に黒い頭巾(ずきん)をかぶり、菅笠(すげがさ)を背中にかけ、藁(わら)の腰蓑(こしみの)を引きまわして、きたない瓜売りのおやじになっているのである。
~仮装の町の辻にでっぷりとふとったあじか(土運びのザルに似たもの)売りがあらわれたのである。
家康であった。いかにも不器用に荷をにない、荷をふりふり、「あじか買わし、あじか買わし」と呼ばってきた。内心、おそらく不機嫌であったろうが、秀吉の機嫌を損じてはなるまいとおもったのであろう。必死に売り声をはりあげてくる。
これにはどっと沸き、
ーそっくりのあじか売りじゃの。
と目ひき袖引きする者が多かった。




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↓ 功名が辻(三)/司馬遼太郎/文藝春秋/文春文庫。
p54
文禄3年、秀吉が朝鮮渡海の大本営である肥前名護屋城に在陣していたときのことだ。6月28日、というから、盛夏のころである。暑くもあり、長陣で退屈でもある。名護屋在陣の将士は、ようやく士気がだれはじめていた。秀吉は、そういう人情はいちやはく察する男である。かといってそれをひきしめるために、むずかしい訓令などは、かれは出さない。
「なにか、遊びの趣向はないか」と秀吉はそんなことに頭をつかった。「わっと場内が割れかえるほど笑うような趣向が」と、かれはお伽衆や、奥むきの女官などにきいた。みな、ほどほどなことをいった。どの案をみても秀吉は、「いかん、世に在ったことじゃ」といった。すでに先例のあったような催しはやりたくない。「奇抜な!」といって人が手を打っておどりあがるような趣向をかれは望んでいる。ついにかれは、思いついた。
仮装園遊会をすることであった。武将の一人々々に意外な変装をさせ、たがいに相手を笑いながら一日をすごそうというのである。そこで、そのための奉行を臨時に置き、いっさいを準備させた。
これが、日本における仮装園遊会のはじめで、その着想が奇抜なだけではない。仮装して登場する人物も、日本史上もっともけんらんたるものであった。
徳川家康以下の戦国生き残りの英雄豪傑が、おもいおもいに仮装して出場するのである。




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↓ 司馬遼太郎 街道をゆく2 韓(から)のくに紀行/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫

p118~119
あらかじめ慕夏堂について語っておかねばならない。
『慕夏堂記』(正確には『慕夏堂文集』)という朝鮮の古い漢文がある。
かつてそれを手に入れ、なんとなくながめているうちに、おどろくべきことが書かれていることを知った。豊臣秀吉の朝鮮の役(朝鮮にあっては壬辰の倭乱)のとき、兵3千人をひきいる日本の武将が朝鮮側に降伏したというのである。かれはのち武功をかさねて王寵をこうむり、武官ながら二品という大臣相当の官位にまでのぼり、土地をたまわってその族党や家臣が一村をなし、その子孫が無事太平の世をたのしんでいるという意味のことが書かれているのである。

p120
『慕夏堂記』によれば、なにぶん1将のもと3千人という大量投降であり、ゆゆしい事件であるといっていい。
主人公の名は沙也加という。沙也加とは日本名を朝鮮漢字に音だけうつしたものだが、サヤカなどという日本名はちょっとありそうにない。サヤカ。朝鮮音でいうとサイェカ。サエカに似る名なら、たとえばサエモンと考えるとどうだろう。左衛門。可は筆記する場合に門とよくまちがう。はじめはおそらく「沙也門(さえもん)」とでも書かれていたにちがいない。まあそれはどちらでもいい。




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↓ 司馬遼太郎 街道をゆく11 肥前の諸街道/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫

p48 
松浦半島に、夜が来てしまった。外津(ほかわず)からいそぎ東へひきかえした。途中、名護屋の浦を通った。浦のはるかな高所に、橋がかかっている。浦を眼下に見下ろしつつ通りすぎるのである。右手が、山であった。車の前照灯が、右側の崖を照らした。
「堀久太郎陣跡」という看板が出ていた。こういう海辺で”名人久太郎”の名前に出くわそうとは、思わなかった。しかし考えてみると、当然ではあった。久太郎、名は秀政、官名はいろいろある。美濃の人で、もともとは斉藤道三の家人であった。少年のころに斉藤氏が没落し、織田信長に近待して寵愛された。さらには秀吉に仕えた。秀吉が朝鮮侵攻の大本営をこの松浦半島の先端の名護屋に置き、この道路の右側の山に築城し、非出陣の諸大名を曲輪(くるわ)々々に住まわせた。堀久太郎も、そういう一類のひとりである。「陣所跡」があっても、ふしぎではない。




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↓ 司馬遼太郎 街道をゆく13 壱岐・対馬の道/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫

p94~96
さて、朝鮮通信使のことである。
徳川日本がこういう国使をかの国からよびつづけたというのは、この閉鎖的な政権にとっては異例であった。鎖国時代の外界との通風孔は、長崎という針の穴のような場所で中国、オランダとのみほそぼそと制限貿易をしたほかには、この朝鮮通信使という形態の風通しがあったのみである。
家康の在世中の慶長12年(1607)に徳川家の天下をよろこぶ和平的な使節がやってきて、幕府はこれを手あつくもてなし、これがその後のしきたりになった。徳川期、この来聘(らいへい)は前後12回におよぶ。
李氏朝鮮は、家康と徳川幕府に好意的であった。当然なことで、前代の豊臣政権が朝鮮に対して悪すぎた。何の名分もなく朝鮮に出兵し、前後7年間、朝鮮と朝鮮人にあたえたうらみと惨禍は深刻という程度のことばでは言いあらわせない。
その秀吉が死に、家康が豊臣家の筆頭大老として在朝鮮の諸大名をひきあげさせ、ほどなく家康の天下になった。朝鮮にとっては豊臣政権への報復を家康がやってくれたようなものである。家康は幸いにも朝鮮出兵に加わっておらず、一兵も送っていなかった。秀吉が日本列島の西半分の諸大名を動員し、半分の兵を控置したからである。



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↓ 司馬遼太郎 街道をゆく15 北海道の諸道/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫

p71
天正18年(1590)10月末、現在の北海道の道南地方の要地に割拠していた松前(当時、蛎崎:かきざき)慶広(よしひろ)が、冬近い津軽海峡をわたって(前田)利家に会いにきたのである。
~慶広は各地を転々して他の諸将にも会った。目的は秀吉へのとりなしをよろしくと懇願することであったが、どの将も慶広の人体をみて好感を持ったにちがいない。

p72~73
慶広は、このまま二カ月近い日数をかけて京へのぼった。従者には何人かアイヌがいたといわれる。
秀吉はよろこび、かれを聚楽第(じゅらくだい)で謁見した。このとき秀吉は奏請して慶広のために従五位下民部大輔(じゅうごいのげみんぶだゆう)をもらってやっている。

p74~75
慶広が京から松前へ帰ったこの年(天正19年・1591)9月、秀吉は朝鮮への侵略の軍令を諸将にくだすのである。幸い慶広には何の義務も命じられなかった。しかしかれは陣中見舞いのつもりか、すかさず上方(かみがた)へのぼるのである。大阪に着くと秀吉は九州の名護屋城に移ったという。慶広はさらに九州へゆく。いたいたしいほどである。
文禄2年(1593)正月2日、慶広は肥前名護屋城についた。北海道人が九州へ行ったのは、記録としては慶広とその従者が最初である。
秀吉は驚いたであろう。
慶広が到着して3日後に志摩守に任じさせている。秀吉は朱印を捺した公式書類も与えた。

松前において、諸方より来る船頭商人等、夷人に対し、地下人(じげにん)に同じく、非分の儀申かけるべからず

~つまりは、松前氏をアイヌの保護者であるとし、あわせてアイヌに非分を働く外来者に対する司法権も与えた。




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↓ 司馬遼太郎 街道をゆく36 本所深川散歩 神田界隈/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫

p186~187
藤原惺窩(ふじわらせいか)(1561~1619)は独立自尊のひとであった。師さえなく、独学でまなび、生涯、他人にも仕えなかった。さらに世の大名という者を軽侮(けいぶ)していた。かれらは暴力でのしあがっただけではないか、というのである。
ただ、豊臣家の諸大名のあいだで、惺窩をまねいてはなしをきくことが、小さな流行になった。
関白豊臣秀次にまねかれ、一度は応じたが、二度は応じなかった。このため危害を加えられそうになり、その難を避けて九州にくだり、朝鮮の役のために肥前名護屋城にいた豊臣秀吉の行営(こうえい)下に入った。名護屋滞在中、2,3の大名のために講義をした。そのなかに、家康もいた。




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↓ 司馬遼太郎 街道をゆく41 北のまほろば/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫

p308
余談ながら、蠣崎信純がこの蠣崎(下北半島)を落去してから136年経った文禄2年(1593)、信純から5代目の松前慶広(よしひろ)が、歴史の照明のなかに登場する。松前慶広は、豊臣秀吉のまえで平伏しているのである。ときに秀吉は、諸人の不安を押しきって朝鮮に対し無名の師をおこしつつあり、その指揮所を、九州北部の名護屋城に置いていた。松前にいる慶広は、本州北端の津軽藩などと同様、中央の情勢に敏感だった。慶広は、すでに天正16年(1588)、前田利家ら秀吉にちかい人達のとりなしを得て、秀吉に京の聚楽第(じゅらくだい)で拝謁していた。
名護屋城での拝謁は、二度目になる。松前慶広は、すでに40半ばであった。秀吉は、大いによろこび、松前藩の北海道における交易の独占を許可したりした。そのとき、慶広は、あざやかな錦の胴着を羽織っていた。陪席した徳川家康が、「志摩守(しまのかみ)(慶広のこと)の錦、一向見馴れぬが」なんという錦か、と問うと、慶広はすかさず脱ぎ、家康に贈り、「蝦夷錦(えぞにしき)」と申します」といったことは、この『街道をゆく』のどこかでふれたような気がする。




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↓ 故郷忘じがたく候/司馬遼太郎/文藝春秋/文春文庫
「16世紀末、朝鮮の役で、薩摩軍に日本へ拉致された、数十人の朝鮮の民があった。以来4百年、やみがたい望郷の念を抱きながら異国薩摩の地に生き続けた、その子孫たちの痛哭の詩」




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↓ 司馬遼太郎の街道Ⅲ 愛した辺境/司馬遼太郎/週刊朝日編集部/週刊朝日/朝日文庫

p239~252 沈壽官家の少年(上)、(下)
沈壽官家の祖先は、豊臣秀吉の2度目朝鮮出兵(1597~98年)のため、故郷を奪われた人々のなかにいた。島津軍は全羅北道南原(ナムウォン)(朝鮮半島南部)で約80人の朝鮮人陶工をつかまえ、薩摩に連れて帰っている。14代は自分の先祖をユーモラスに、「よほど、運動神経が鈍かでしたろうな」と司馬さんに語っている。




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↓ 播磨灘物語(四)/司馬遼太郎/講談社/講談社文庫
p260~262
秀吉が朝鮮へ出兵したとき、秀吉の羽柴時代からかれと戦野で生死をともにした武将の多くが渡海した。
~如水の黒田家5千の兵も、長政にひきいられて従軍している。ただ如水は家督を長政にゆずっているために秀吉のもとにいた。
文禄2年2月、如水は浅野長政とともに、秀吉の訓令をたずさえて在韓軍に連絡すべく渡海したことがある。このとき、如水は釜山にちかい東萊(とうらい)の本営で滞在した。そのころ、石田三成、増田長盛、大谷吉継といった文吏派の3人が、軍監として早くから朝鮮に滞在していたが、ある日、如水らと何事かを相談すべく東萊にやってきた。「ただいま石田治部少輔どのらがお見えでござります」という取次があったが、たまたま如水は浅野長政と碁を打っていた。「お待ちねがうように」と如水がいったがかれはなんとなく物憂かったのであろう。如水にとって、秀吉が老いて狂したかとしか思えぬようなこの朝鮮出兵そのものが物憂かった。戦況は思わしくないだけでなく、士卒の士気も衰え、前線から逃亡して北九州の沿岸に逃げかえる者も多い。秀吉の意図を体して正気で駆けまわっているのは石田三成ら文吏派の奉行たちぐらいのものであり、その連中が作戦のうちあわせにやってくるということ自体、如水にはわずらわしかったのであろう。
如水は、忘れてしまった。
碁をうちおわって気づいてみると、三成らは憤慨してひきあげたあとだという。
このことが、三成の口から秀吉の耳に入った。あとで如水が前線から帰国し、伏見に登城して秀吉の謁を乞うたが、秀吉はゆるさなかった。
(もはや、ここまでだ)と、如水は思ったであろう。秀吉の幕僚としてながく仕えてきたが、いまは三成らがその位置におり、如水は過去の人になった。かれは三成と正面から争うことを避け、秀吉に詫びを入れるというかたちで頭を剃った。如水、如水軒という隠居号を公的にも称するようになったのは、このときからである。



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↓ 新史太閤記(上)、(下)/司馬遼太郎/新潮社/新潮文庫

豊臣秀吉が天下を取るまでの事が書かれているが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の前で物語が終わっている。
司馬遼太郎さんはこの部分を書きたくなかったのではないかと思う。







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最終更新日  2023.10.14 16:14:07
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