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2023.10.04
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2018年2月10日朝、佐賀県立名護屋城博物館を見学しました。

肥前名護屋城図屏風(複製)が展示されており、次のように記載があります。
桃山時代~江戸時代前期
本館蔵(佐賀県重要文化財)
名護屋城と城下町の様子を克明に描いた絵画で、秀吉の御用絵師として名護屋城内の数々の障壁画を手がけた狩野光信の作と推定される。
画面中央に大都市「名護屋」の賑わいを、その上半には名護屋城と諸大名の陣所を描き、下半には豊臣軍の旗艦「安宅船(あたけぶね)」が浮かぶ名護屋浦が広がる。画面左端(5.6扇)中央付近の城下町の通りに明国使節団の行列が描かれており、文禄2(1593)年5月にこの地で行われた講和交渉をモチーフとしたものと考えられる。
桃山時代の城と城下町の詳細を描いた絵画は極めて貴重であり、数例しか残っていない近代初頭の「都市図」として、研究価値の大きさが注目されている。


ーーーーーーー
佐賀県立名護屋城で購入した「『肥前名護屋城図屏風』の世界」には、2つの「肥前名護屋城図屏風」が紹介されています。 一部を記載します。

「肥前名護屋城屏風」は、16世紀に日本国内を統一した豊臣秀吉が「文禄・慶長の役」と呼ばれる大陸・朝鮮国への侵攻を行った際に、国内拠点となった「肥前名護屋城」を描いたものです。現在、一般に公表されている当時の肥前名護屋を描いた絵画資料としては、同系統の構図で描かれている名護屋城博物館蔵本(「名博本)」と群馬県個人蔵本(「群馬本」)の2点が知られています。
~屏風絵は、名護屋城の北北東約2㎞にある加部島天童岳(標高112m)後方上空からの眺望として描かれ、名護屋城を頂点に末広がりに展開するその城下域(武家屋敷・城下町等)や名護屋城周辺域の諸大名陣屋等の広大な範囲が鳥瞰的構図で緻密に描かれ、それらは現況や発掘調査等との整合性も高く、往時の名護屋の繁栄を知る貴重な資料となっています。



↓ 肥前名護屋城屏風
桃山時代 伝 狩野光信筆
佐賀県立博物館 原蔵
文禄2年(1593)夏頃の、肥前名護屋城と城下町の景観や風俗を描いた屏風。5層の天守を持つ名護屋城を中心として、周辺にある大名の陣屋で町屋、湾に浮かぶ安宅船(あたけぶね)、明の使節の行列などを詳細に描写している。



↓ 肥前名護屋城屏風(名博本)。


↓ 【5・6扇】 名護屋浦に安宅船が見える。


↓【5・6扇】上から。
外津浦(ほかわづうら)、石屋町、女郎町、筑前町、塩屋町、大谷吉継(おおたによしつぐ)陣、明使の行列、蔵地、寺沢広高(てらさわひろたか)陣、材木町、名護屋浦、徳川家康別陣、地獄浜、加藤嘉明(かとうよしあき)陣、呼子口。



↓ 【3・4扇】


↓ 【3・4扇】上から
串崎、串浦、豊臣秀保(とよとみひでやす)陣、名護屋城、天守、本丸、遊撃丸、三ノ丸、東出丸、水手曲輪(みずのてくるわ)、上山里丸(かみやまさとまる)、下山里丸(しもやまさとまる)、台所丸、厩(うまや)、鯱鉾池(しゃちほこいけ)、兵庫屋町、徳川家康陣、茜屋町、竹ノ丸、古里町、弁天島、天童岳、加部島。


↓ 【1・2扇】


↓ 【1・2扇】上から
五島列島、平戸島、大戸浦(おーとうら)、黒瀬、上杉影勝(うえすぎかげかつ)陣、厩(うまや)、ムギハラ町、波戸浦(はどうら)、船瀬。


↓ 名護屋城。



↓ 天守閣。



↓ 名護屋城と陣屋敷の地図。





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↓ 佐賀県立名護屋城で購入した「『肥前名護屋城図屏風』の世界」には、2つの「肥前名護屋城図屏風」が紹介されている。名博本と群馬本。



↓ ① 名護屋城博物館所蔵本(名博本)
名博本は、出所・伝来等の詳細はよくわかっていませんが、六曲一隻の屏風として仕立てられる以前は(昭和40年:1965年)前後、美濃紙を繋ぎ合わせた大きな画面で竪八つ、横三つに折りたたんであったようです。その後、屏風に仕立てられて昭和43年(1968年)6月に東京古典籍會主催の「古典籍展観大入札會」に出品され全国的に大きな話題となり一般に知られるようになりました。
昭和45年(1970年)に佐賀県立博物館の所蔵となり、昭和54年(1979年)の佐賀県重要文化財としての指定を経て、平成11年(1999年)に管理換によって佐賀県立名護屋城博物館(平成5年:1993年)開館の所蔵となり現在に至っています。



↓ ② 群馬県個人所蔵本(群馬本)
群馬本は、群馬県佐波郡(現在の伊勢崎市)の旧家に、「唐津城図(仮称)」と共に六曲一双の屏風として所蔵されていました。所蔵者の話では、明治初期に旧藩主(伊勢崎藩)の酒井家からこの一双の屏風を購入したものと伝えられています。屏風絵の名称についての伝来はありませんが、その当時から一隻が肥前名護屋城の屏風絵であることは知られていたようです。この一双の屏風は、平成17年(2005年)に公表されて一般に知られるようになり、現在は名護屋城博物館の寄託資料となっています。
制作年代については、建物・人物等の描写表現・技法・色彩等から江戸時代後期(18世紀中頃~19世紀前半)の制作で模本の類と推定されています。製作者についてははっきりとしていませんが、描写技法等から狩野派統計の絵師によって制作された可能性が指摘されています。




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↓ 佐賀県立名護屋博物館。









↓ 蒙古襲来
13世紀初め中国大陸の北部に興った蒙古は、周辺諸国への侵攻を繰り返しながらヨーロッパ・アジアにまたがる大帝国を建設した。その過程で高麗(こうらい)も、6度に及ぶ侵略を受けた。高麗は長期にわたって激しく抵抗したが、ついに蒙古の圧力に屈し、講和した。その後蒙古は高麗を前線基地として、2度の日本遠征を行った。



↓ 文永・弘安の役
文永11年(1274)と弘安4年(1281)に、蒙古は高麗を従えて九州北部を襲った。蒙古の服属要求を日本が拒絶したためである。暴風雨により侵攻はいずれも失敗に終わったが、蒙古襲来(元寇:げんこう)の政治的・社会的影響は大きく、鎌倉幕府が解体していく遠因となった。



↓ 高麗・日本への蒙古襲来。





↓ 通信符
朝鮮時代(1453)
毛利報公会 原蔵
朝鮮王国が大内氏に与えた通行証。印面は「通信符」の文字の右半分で、左符は朝鮮に保管され勘合を行ったと思われる。側面に「朝鮮国賜大内殿通信右符〉、背面に「景泰四年七月日造給」の銘がある。



↓ 図書
朝鮮時代(1520)
岸朝子氏 原蔵
「図書」は朝鮮政府が日本人に通行証として与えた銅印。印文は「吉見」で、通行者の名前を刻している。受図書人は、朝鮮へ派遣する使者に持たせる書簡に図書を捺して自己の遣使であることの証明とした。





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最終更新日  2023.10.27 06:43:12
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