カテゴリ:城
2018年2月10日、佐賀県立名護屋城博物館に行きました。
室内には、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄・慶長の役)の海戦で使用された双方の軍船模型が展示されていました。 日本軍の安宅船(あたけぶね)、朝鮮の亀甲船(きっこうせん)を紹介します。 ↓ (船首側)画面左は日本軍の安宅船。右は朝鮮の亀甲船。 (船尾側) ーーーーーーーーーーー 【日本水軍の安宅船(あたけぶね)】 文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)当時、日本水軍の最強軍船である。攻撃力・防御力などの面で他の軍船よりすぐれ、近代の戦艦に相当する。この模型は「名護屋城図屏風」に描かれた安宅船などをもとに復元・制作したもので、総矢倉形式の船体に二層の屋型を持つ。 ○模型縮尺 1/10 ○船の全長 38.0m ○船の幅 11.7m ○監修 石井謙治(日本海事史学会会長) ↓ 「名護屋城図屏風」に描かれた安宅船。 ↓ 安宅船の模型展示。 ーーーーーーーーーーーー ーーーーーーーーーーーー 【朝鮮水軍の亀船(コブクソン)(亀甲船:きっこうせん)】 文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)当時、朝鮮水軍が誇る戦艦で、李舜臣(いすんしん)将軍が創作したと言われている。日本との海戦で活躍し、朝鮮水軍を勝利へと導いた。この模型は「李忠武公全書」の亀船などをもとに復元、制作したもので、船の覆板を亀の背中のように装甲し、船内には天字銃筒(てんじじゅうとう)などの大砲を備える。 ○模型縮尺 1/10 ○船の全長 36.0m ○船の幅 10.6m ○監修 金在瑾(大韓民国学術院会員) ↓ 亀船(亀甲船)の絵図。 ↓ 亀甲船の模型。 ーーーーーーーーーーーーーーーーー ↓ 司馬遼太郎 街道をゆく 2 韓のくに紀行/司馬遼太郎/朝日新聞社/朝日文庫 P48~50で、日本海軍と李舜臣率いる朝鮮水軍の戦いが記されているので紹介します。 李舜臣は良く知られているように、豊臣秀吉の朝鮮ノ役、朝鮮側でいう壬辰倭乱に、朝鮮軍をひきいて驚異的な活動をし、数度にわたって日本の水軍を撃破し、物理的には八割方の制海権を確立して、全般の戦局に重大な影響をあたえた人物である。 「倭、本(もと)水戦に慣れず」と、明の『両朝平攘記』にあるように、日本人は古来水戦が不得意で、室町期の倭寇なども海上戦がにが手だったことは被害国の明でも常識になっていた。ただ陸上へあがると、その強さは明や朝鮮側の手に負えなかった。朝鮮ノ役における豊臣軍も同様であった。その朝鮮側における水戦の功は、ことごとく李舜臣に帰せられるべきもので、かれの足をひっぱろうとした大官はいるにせよ、かれの統率上の協力者や戦術上の協力者はだれもいなかった。 当初、朝鮮の水軍はじつに弱かった。このため慶尚右水使元均という将は倭と戦うには李舜臣の出馬を乞うしかないとおもい、数度使いを出したが、李舜臣はかんがえこむばかりで返事をしなかった。このあたりが当時の官界のむずかしいところで、うかつに立ちあがればあとでどういう罪科をもって陥れられるかわからない。 ついに立ちあがり、戦隊をひきいてさまざまに作戦し、藤堂高虎の水軍を覆滅した。李舜臣の文章の一端をかかげると、日本軍の軍装を描写していうくだりに、 「およそ倭人、紅甲鉄甲、各色の鉄頭、口角の鬛(りょう:ひげ)縦横なり。鉄広、大金冠、金羽・・・などのごときにいたりては、奇形異状、侈(し)を極め、奢(しゃ)を極め、鬼のごとく獣のごとく、これを見る者、神を驚かさざる者なし」 と、日本の織豊時代の具足のぜいたくさとその形状の異様さにふれている。この藤堂高虎の水軍をやぶったのが、玉浦の海戦である。 ひきつづき釜山付近の唐浦の海戦でも大いにやぶったが、この両度とも李舜臣は銃弾にあたって軽傷をうけているところからみても、みずから先頭に立って指揮したのであろう。かれの戦況報告書である注進状をみても、明の将の常套の手である戦果の誇大報告というものはあまりない。さらに閑山洋の海戦をたたかって勝ったときの注進状も、日本側の記録とへだたりがない。 そのあと、李舜臣はべつに功を賞せられることなく、牢に入れられてしまう。まことに李朝の官界というのは苛烈で反目嫉視が多く、やることがじつにめめしい。中国史には大功を樹てた者が図に乗ってあとで害をなしたといういくつかの例があるが、しかし李舜臣はそういう人柄ではなかった。 再度の役(日本でいう慶長の役)のときには李舜臣は牢にいた。朝鮮の水軍がまたたくうちに惨敗した時、李舜臣はふたたび牢から出されて戦わされるのである。 当時、朝鮮では中国のことを、「天朝」と、敬称していた。天朝からも大規模な水軍が応援にきていて、その提督は陳璘(ちんりん)という凶暴な人物だったが、李舜臣はこの男と対立せず、この男の協力を得るために、「戦功はみなあなたの名前にしますから、指揮は私にゆだねてほしい」とたのんだ。こういうあたり、李舜臣の謙虚さと政治手腕というのは尋常なものではない。陳璘もすでに李舜臣の腕を知っていたので、この取引をよろこび、自分の明艦隊をも李舜臣の指揮下にゆだねた。これによって李舜臣は露梁津の海戦をたたかい、大いに日本水軍をやぶった。この海戦中、李舜臣は銃弾によって右わきを射ぬかれ、戦死した。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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