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2023.10.07
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2018年2月10日朝、佐賀県立名護屋城博物館に行きました。

豊臣秀吉による朝鮮出兵に関し、日本軍と朝鮮・明軍の武器の説明があったので、紹介します。

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【日本軍の武器】
長い乱戦の世を経験した日本軍は、攻撃に有利な武器を持っていた。特に16世紀半ばに日本に伝えられた火縄銃は、戦の形を変え、文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)においても、日本刀とともに強力な武器となった。また朝鮮側に投降した日本の将兵(降倭)は火縄銃、日本刀の製法や使用法を伝えた。
























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↓ 朝鮮・明軍の武器
武より文を重んじた政治体制下にあった朝鮮軍の主な兵器は、伝統的な弓矢と大小の銃筒であった。また明軍は仏狼機砲(ふらんきほう)などの大砲を以て戦争に臨んだ。しかし命中精度の高い火縄銃と日本刀のほうが戦闘にすぐれ、朝鮮・明軍は苦戦を強いられた。
























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↓ 文禄・慶長の役 空虚なる御陣/上垣外憲一/講談社/講談社学術文庫


P100~102
この朝鮮の役での日本軍の勝利は、鉄砲と日本刀によってもたらされた、といえる。日本刀の鋭利さは、すでに倭寇の害によって中国・朝鮮ではよく知られていた。
~東莱(トンネ)城の戦いでは日本軍大刀が勝敗を決した、とフロイスは書いている。-「双方ともに大いに奮戦したが、朝鮮人は頭上に振り翳される日本人の大刀の威力に対抗できず、ついに征服された」。
また有名な碧蹄館の戦いでも、日本軍の勝因の一つに、日本刀の鋭利さが挙げられている。

賊(日本軍)のほうはみな歩兵で、かれらの打ち振る刀は、3、4尺におよび、鋭利無比のものであった。賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ちふるい、人馬の区別なく斬り伏せた。まったくその勢いには抗すべき道がなかった。(『懲​​​毖録(ちょうひろく)』)

しかし​、なんといっても、日本軍の最も強力な戦力となったのは、鉄砲であった。
『懲​​​毖録(ちょうひろく)』ではその鉄砲について次のように描写している。

日本人は戦闘に習熟し、しかも機械は精巧である。昔は鉄砲がなかったが、今それを所有している。有効射程、命中率は弓矢に倍する。・・・弓矢の技は百歩にすぎず、鉄砲は数百歩におよぶ。飛んでくるさまは、風、あられのよう。とても抗せるものではない。

この小銃の集中射撃の威力で、日本軍は次々に勝利を手にしていったのである。

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P120~122
『武功夜話』は、平壌の戦いで日本軍は鉄砲隊1500挺で明兵に撃ちかけたところ、「豈(あに)はからんや大明の大筒(おおづつ)雷音とともに城中へ飛来、一度に数千人打取られ」と、その大砲の威力のすさまじさを描写している。
『武功夜話』には、明の大砲がいかに日本側の脅威となったかを示す言葉が繰り返し出てくる。「すなわち大明兵の大筒落ち掛かり候いては、如何様(いかさま)味方の鉄砲勝りたるといえども支え難く」、「平壌3日を支えきれず落去に及び候。これは小西摂津守弱みには非ずなり、大明の玉薬身方に勝り候故に候なり」、「数百門大筒百雷一遍に落ちたる如く、如何なる堅塁もみじんに相成る」等々である。
いかに明軍の大砲の威力に日本軍が驚き、恐れたかがわかる。
日本軍は飢えと寒気にも苦しめられた。凍死する者もあとをたたなかった。

都(漢城)においては越冬は苦しく兵糧は不足、1日2度に減じ雑炊(ぞうすい)を喰いつなぎ候。薄着のため手足寒気にやけくさり、指先自由を失う者多数あり、鉄砲打ちかねたる者数知れず。寒死する者その後を断たず候なり。(
『武功夜話』)

~『日本史』は次のように描写する。
日本軍は雪や氷の上を歩き馴れない上に、朝鮮人やシナ人が用いている厚い皮靴の使用を知らず、寒気と水分に弱い草鞋(わらじ)を履いていたので、その苦痛は言語に絶し、多くの者は足の親指が凍傷で落ち、そのいくつかは当時日本へもたらされている。

食料不足と寒気による凍傷、落伍して死ぬものもあり、命からがら漢城に逃げ帰った者も、別人のようにやつれ果てていた。負傷者、病人は捨てていかれた。

ある者は田の中を這いまわったり、口を指して食物を求めたりした。
(『懲​​​毖録(ちょうひろく)』)

力なくして身もつかれ、親を討たるる人もあり。兄を討たるる者もあり。・・・手足は雪にやけはれて、着物はよろいの下計(ばかり)、さも美敷(うつくしき)人なども、山田のかかしと衰えて、あらぬ人かとも見も分かず。(『吉野甚五左衛門覚書』)

小西軍は雪と氷の朝鮮の山野を、惨憺たる辛苦をなめて漢城に逃げ帰ったのである。一方、さらに北方の威鏡道にあった清正軍も厳しい寒気に苦しめられ、義兵の蜂起の盗伐に奔走する状況に追いこまれていた。​​​​





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最終更新日  2023.10.23 17:50:06
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