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2023.10.09
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2018年2月10日、佐賀県立名護屋城博物館に行きました。

館内には名護屋城と城下町の1/300スケール模型が展示されており、当時の名護屋の様子がとてもよく分かります。

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名護屋城に隣接する丘陵に、豊臣秀吉の正室おね(ねね:北政所)の甥の木下延俊(きのしたのぶとし)の陣があり、そのそばに名護屋城博物館が建っています。

佐賀県立名護屋城博物館のパンフレット「大名の陣屋跡~特別史跡木下延俊陣跡~/屋外常設展示 常設展 日本列島と朝鮮半島の交流史 4 特別史跡名護屋城跡並びに陣跡 1997.5」に、木下延俊の記載があるので、一部を紹介します。

「木下延俊は、天正5年(1577)に木下家定(いえさだ)の三男として生まれました。豊臣秀吉の正室おね(北政所、高台院)の甥(おい)にあたります。
当時の所領は、播磨三木郡(はりまみきぐん)の内2万石であり、その後の関ケ原の戦いの時は東軍につきその功により慶長6年(1601)、豊後速見郡日出(ぶんごはやみぐんひじ)城主として3万石の封を得、寛永19年(1642)に66歳で没しました。延俊の後、木下氏は転封もなく、日出(ひじ)藩主として幕末まで16代続きました。」

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木下延俊の兄弟ですが、5男は秀秋です。豊臣秀吉が毛利輝元に秀秋を養子にという話を持ってきました。毛利輝元の3男である小早川隆景が、輝元の養子にするのはまずいと考え、自分の養子にするとしたため、小早川秀秋となりました。
関ケ原の戦いでは、静観していた小早川秀秋に対して徳川家康が怒り、小早川軍に鉄砲を打ち込ませたので、小早川軍が西軍の大谷軍を攻めて流れが変わり、東軍の勝利になったという有名な話があります。
その後、小早川秀秋は岡山城主となりますが、2年後に亡くなり、子供がいなかったので改易となりました。

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↓ 名護屋城と城下町の1/300スケール模型。



↓ 名護屋城と城下町。
名護屋城は16世紀末、豊臣秀吉が文禄・慶長の役(壬辰・丁酉倭乱)に際して築いた城で、総面積約17万㎡と当時では大阪城につぐ規模を持っていた。海との間には大きな城下町が形成され、城の周囲には120以上の全国の大名たちの陣屋が築かれた。この大都市には、10数万もの人々が居住したといわれている。
この模型は「肥前名護屋城図屏風」をもとに復元・制作したものである。
○模型縮尺 1/300
○製作監修 西 和夫(神奈川大学工学部教授)




↓ 名護屋城と城下町。
中央の天守閣がある場所が本丸。その左から手前まで、遊撃丸、二の丸、弾正丸が続き、搦手口がある。奥は名護屋浦の海や、徳川家康の陣が見える。



↓ 中央は天守閣。天守閣の左は遊撃丸、手前は二ノ丸、左奥の堀は鯱鉾池と台所丸。


↓ 名護屋城から名護屋浦を臨む。



↓ 名護屋城(左)の近くにある中央の陣は、豊臣秀吉の正室おね(ねね:北政所)の甥の木下延俊(きのしたのぶとし)の陣。
このそばに、現在は佐賀県立名護屋城博物館がある。





↓ 天守閣と本丸(中央)。 その下は水手曲輪(左下)、遊撃丸(中下)、二ノ丸(右下)


↓ 名護屋城と鯱鉾池の位置。


↓ 名護屋浦から名護屋城まで続く道。奥が名護屋城。手前が徳川家康陣。



↓ 名護屋城(奥)と、徳川家康陣(手前)の位置。武家屋敷や城下町が続く。


↓ 奥に名護屋城。中央付近に徳川家康陣、下の方に本多忠勝陣。












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↓ 諸大名の陣屋位置。























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文禄の役当時の大名は位置図。

【似顔絵のある大名】
1)鍋島直茂、2)加藤清正、3)島津義弘、4)毛利輝元、5)加藤嘉明、6)福島正則、7)長曾我部元親、8)古田織部、9)石田三成、10)豊臣秀吉、11)前田利家、12)山内一豊、13)徳川家康、14)蒲生氏郷、15)伊達政宗










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最終更新日  2023.10.24 12:20:55
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