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2024.06.03
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カテゴリ:本、雑誌、記録
「地球の歩き方」の歩き方/山口さやか・山口誠/新潮社 を読んでいると、旅行ガイドブックで大変有名な「地球の歩き方」がどのようなきっかけで作られ、どのように部数を増やしてきたかがよく分かります。
また、1970年代から旅行の形がどんどん変わってきたことも理解できます。

本の序章で、「地球の歩き方」について簡単な紹介があるので、一部を記載します。

(p8)初めて「地球の歩き方」が書店に並んだのは、1979年9月だった。
しかし、その本当の誕生日は、もう少し前にさかのぼるという。「地球の歩き方」を創刊した4人(安松清、西川敏晴、藤田昭雄、後藤勇)に聞けば、その胎動は1970年代の初年には、すでに始まっていた。

~大阪万博(1970年)はその後も続き、当時の日本の人口の半数を超える6200万人もの来場者を集めて9月13日に閉幕した。2か月後の11月25日には、三島由紀夫が「楯の会」の会員4人と市ヶ谷の自衛隊施設に立て籠もり、クーデターを呼びかけた後に割腹自殺した。1970年代の初年は、語るべきこと、語れることが多い年だった。
その時安松清は、ダイヤモンド・ビッグ社が刊行する女性雑誌『Let's』の創刊編集長で、6歳年下の西川敏晴は、同社に就職が内定したばかりの大学4年生だった。
経済系出版社の老舗であるダイヤモンド社の子会社として、1969年に新設されたばかりのダイヤモンド・ビッグ社は、なぜか60年代安保の元闘士たちが要職に就く、それだけに実験的な活動を好む、若い会社だった。

(p10)入社前に時々、会社へ遊びに来ていた西川は、大学卒業を目前に控えた1970年12月、安松に「行ってきます」と声をかけて、海外旅行へ旅立った。西川は横浜港からソ連のナホトカへ船で渡り、シベリア鉄道でヨーロッパに入った。ユースホステルの相部屋(ドミトリー)を泊まり歩き、欧米のバックパッカーたちと出会い、海外旅行の魅力に取りつかれた彼は、陸路でバックパッカーの聖地・インドへ向かい、そしてアジアをめぐって3月31日の深夜に帰国した。ヒッピーの「制服」、アフガンコートに身を包んで。
髪を切る間もなく、翌日の入社式に出席した西川について、「ヒッピー風の、変わった奴だった。新入社員の研修のあいだ、ずっと居眠りをしていた」と、同期入社の藤田昭雄は記憶している。
入社後の西川は、折を見て安松の席へ遊びに来た。年齢の差以上に、話し方も姿格好も異なる二人だったが、話題は尽きなかった。

あるとき西川は、旅の途中で手に入れた本を安松に見せた。ヨーロッパを旅する欧米の若者たちに絶大な人気を博していたガイドブック、アーサー・フロンマーの『ヨーロッパ1日5ドルの旅(Europe on 5 Dollars a day)』だった。
西川はユースホステルで知り合ったアメリカ人の旅行者から、その本を見せてもらった。各地の安い食堂やホテルの情報が満載された分厚いガイドブックに衝撃を受けた西川は、アメリカ人が寝る前にそれを借り、相部屋のベッドの中で一晩中、貪り読んだ。のちに彼は、パリの書店で自分のフロンマーを入手した。
「こういう本、日本でも作れたらいいですよね」
そう西川がつぶやいたとき、いつもニコニコ笑顔で話す後輩に、安松は言った。
「それを毎日、毎日、言い続けることだよ。そうすれば、きっと夢は叶うから」
西川にとって、すでに自分の雑誌を創っている安松は夢を叶えた人であり、その人が言うことばは、心に響いた。それで、ずっと言い続けた。

(p11)1971年の夏、安松は初の海外旅行へ出かけることになった。会社が彼に、日本航空の世界一周旅行券と、数か月分の旅費を与えてくれた。表向きは、充電期間と海外取材を兼ねた「ご褒美」だった。羽田空港で社長ほか上司に見送られ、アメリカ行きの飛行機に搭乗した安松は、ヒッピー・カルチャーが爛熟期を迎えていたカリフォルニアに到着すると、脳天を打ち抜かれた。そこには『an・an』も『non-no』もなかった。むしろ『Let's』が憧れた、アメリカンなもので満ち溢れていた。

(p12)安松が初めて海外に出た1971年、日本の海外旅行者は961,135人であり、それは総人口の1%以下だった。そのうち観光目的の海外旅行者に限れば、搭乗員に連れられて団体で移動するパッケージ・ツアーの参加者が大半であり、宿も交通手段も予約せず、ひとりで何か月も歩き回る日本人は、ごく稀だった。そんな安松の旅は、行く先々で思わぬ出会いがあり、新鮮な発見と、素直な驚きの連続だった。
そうして、日本に帰りたくないなぁと思い続けた旅の終わりのころ、「あ、会社に帰っても席がないのかもしれない」と、気づいてしまった。予感は的中し、安松が育ててきた『Let's』は、彼の留守中に休刊が決まっていた。
一年前の西川と同じように長髪姿で帰国した安松は、編集部の自席を失ったかわりに、形のないものを得ていた。海外旅行は、理屈抜きで面白い。しかも情報と工夫する気持ちさえあれば、誰でも安く長く海外を歩くことができる。そんな確信と情熱を胸に帰ってきた安松は、今度は自分が「言い続ける」番になった。ボクらの旅を、みんなへ。

やがて「ボクら」は、4人になった。後藤勇は、カタカナ交じりの独特な話し方をする異国風の九州男児で、その営業力を買われて大阪支社から合流した。藤田昭雄は冷静沈着な理論派で、西川と同期入社ながら子持ちの妻帯者らしい手堅い実務能力を発揮して、メンバーを支えた。そうして後藤と藤田に西川を加えた3人の仲間を得た安松は、旅行会社を巻き込んで、若者たちが自由に海外を歩く新しいスタイルの旅行企画に乗り出した。1973年の秋だった。

出版社が海外旅行を売るという、4人組の実験的な活動は、やがて一つの実を結んだ。最初のそれは、旅行を申し込んでくれた若者たちへ無料で配布する、おまけの小冊子だった。だがそれは1970年代の地表に芽を出すと、多くの若者からたくさんの栄養を与えられ、見る間に大木へ育っていった。ガイドブック「地球の歩き方」の誕生である。

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↓「地球の歩き方」の歩き方/山口さやか・山口誠/新潮社



↓ 山口さやかさん、山口誠さんの紹介。



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↓ p7 序章 ボクらの旅を、みんなへ
安松清氏と西川敏晴氏が旅した1971年のアーサー・フロンマー『ヨーロッパ1日5ドルの旅(左)
西川氏が旅の途中で入手したアフガンコート。1970年代のヒッピーの「制服」だった(右)



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↓ p15 第1章 「自由旅行」の原石
DST (ダイヤモンド・ビッグ社の「ダイヤモンド・スチューデント友の会」)参加者に配られたバッジ(左)と1974年のDST参加者の文集(右)
第一回「自由旅行」の体験記が詰まっている。
のちに「地球の歩き方」の原型の一つになった。



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↓ p53 第2章 「自由」を仕掛ける
1976年に制作された非売品「地球の歩き方」
ヨーロッパ編(左)とアメリカ編(右)



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↓ p79 第3章 「地球の歩き方」の創刊
1979年に初めて市販された「地球の歩き方」
ヨーロッパ編(左)とアメリカ編(右)



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↓ p114 第4章 みんなで作るガイドブック
インド・ネパールの初版(1981年)
「地球の歩き方」の評価を定めた第三作。



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↓ p145 第5章 シリーズ化への道
中国自由旅行編(第2版、1985年、左)と、同署に記載された旅行説明会の広告(右)



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↓ p177 第6章 プラザ合意の波に乗って
タヒチ・フィジー・ニューカレドニア・南太平洋の島々編の初版(1987年・左)と唯一の「サイン入り」あとがき(右)



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↓ p211 第7章 トップシェアの孤独
幻の国「チトワン」編(1993年)
映画「卒業旅行」の小道具として製作された。



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↓ p237 第8章 世代交代のとき
「地球の歩き方マガジン」創刊準備号(1990年)
個人旅行の専門誌として画期的な特集を組んだ。




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↓ p269 終章 新しい歩き方へ
ヨーロッパ編のリニューアル前(1988・89年版、左)とリニューアル後(2003・04年版、右)の表紙。



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↓ p295 附 もう一つの歩き方 表紙の30年
日出嶋昭男氏が愛するクライスラー・ビルを描いたニューヨーク編(1989・90年版)





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最終更新日  2024.06.16 06:26:59
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