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やっとここで本題に入りますが、「仔猫殺し」の坂東眞砂子の記事を読んでからずっと自分なりに考えていました。記事の騒動を受け、坂東眞砂子が
「動物にとっては生きるとはなにか、という姿勢から、私の考えを表明しました。それは人間の生、豊穣性にも通じることであり、生きる意味が不明になりつつある現代社会において、大きな問題だと考えているからです」
というコメントしたというニュースを読んでからは益々考えるようになりました。
「仔猫殺し」の記事も矛盾だらけだったけど、このコメントも・・・私には何度考えても理解できません。尤もらしい事を言っているようで、その行動を考えると全く意味不明。
「生きる意味が不明になっている現代」って・・・。「『生』『命』の尊さを訴える為に殺した」ってことなんでしょうか?私には殺人犯が「命の尊さを訴える為に殺したんだよ」と無理矢理自分の行動を正当化してるのと同等にしか聞こえて来ません。「理解できない自分がバカなんだろうか?」と思いながら、何度も何度も考えています。そして、今日もがんセンターへ向かう途中、着いてからも待合室でずっと考えていました。
私が以前受けた比較心理学(動物の行動と人間の行動を比較することで、人間の行動や心理を勉強するもの)では、「生物の"primary"(主な、第一の)"purpose"(目的)は子孫を残すこと」と学びました。自分の子孫を残す為に同種と争い殺しあう動物がいれば、危険が迫った時には自分の子供さえ食べる動物もいて・・・。一方で、自分の子ではなくても同族の命を助ける為に自らを犠牲にする動物もいることを知りました。同じように、猫だって「子孫を残す」ことが生きることの"primary purpose"だと思っています。けれども、果たしてそれが「自分の命を犠牲にしてまでも子孫を残したい」のかは私にはわかりません。ただ、生まれて来た猫達は「生きたい」と願い頑張ることは確かだと思います。全て人間の都合・観点からなのはわかっていても、
・出産しても殺される、またはかなりの確率で育たない
・避妊
と、どちらにしても子孫を残せない状況なら、やはり避妊の方が親猫にとっても仔猫にとってもいいのではと私は思います。
「獣の雌にとっての「生」とは、盛りのついた時にセックスして、子供を産むことではないか。」
と言っていますが、これでは出産することが最終目的ということなんでしょうか?
私は「子孫を残す」ことが最終目的で、発情・交尾・出産は目的に向けての過程のひとつだと考えますが・・・。この人が猫に対してこのように考えるのは、きっと自分自身がそうだからなんだと思います。母猫の仔猫への愛情の深さを知らず、自分自身も親や子への愛情を持てず・・・。この人にとっての「生の充実」は「性欲の充実」止まりなんだろうと・・・。
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ポンちゃんは、最近になって少しずつ子育ても一段落してきたようです。
大好きはちくわを、ようやく自分から食べるようになり、仔猫達は自らちくわをもらいに来ます。(← でも、かなり逃げ腰)
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出産してから現在までの5ヶ月間、自分のごはんは後回しにして、仔猫のために1日に何往復もしてごはんを運んで行きました。
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ビビちゃんは、もうずっと姿を見せていません。
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仔猫の姿も一度見たのを最後に見なくなり、しばらくしてビビちゃんも姿を消しました。
何度産んでも育たないこの環境を悲しんで絶望して自らもいなくなってしまったのではないかと思うと胸が痛みます。プーを無理矢理引き離した事は、ビビちゃんにとっては自分の子が死んだも同然なのだと思います。といって、これまでもいつのまにか仔猫達が姿を消しているというその環境でプーを保護したことは良かったと思っています。せめて、プーは元気にしていることを教えてあげたいと思っても、ビビちゃんはずっとその姿を現しません。
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私がまだ発症する前の土手の猫達のお世話をしていた時の5月の朝、ブラピー親子は親子共々ダンボール箱に入れられ捨てられていました。
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親子が捨てられた所は、丁度10匹程の猫達のごはんを食べる場所のすぐ横でした。私がごはんをあげに行った時、5月とはいえ強い日差しを遮る所もないその場所で、お母さん猫は仔猫を守ろうと必死の他の猫達を近づけまいと威嚇していました。
他の猫達は、ただいつも通りにごはんが欲しくてえさ場に行きたいだけなのですが、威嚇するお母さん猫に戸惑い、近づけず、皆遠巻きにして立ちすくしていました。近づくと、2匹の猫が必死にお母さん猫に寄り添っている姿があり、お母さん猫は安心したように甘えて来ました。そのままにして置くことも出来ず、私は3匹とも家に連れて帰りました。
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里親さん募集のための写真を撮ろうとしても正面の写真がなかなか撮れなかったのは、部屋で安心してくつろぎつつも、その目は動き回る仔猫達をずっと追い続けていたからです。
幸い仔猫2匹の里親さんになってくれる方が見つかり、お母さん猫は仔猫達がもう少し大きくなるまで一時預かりという形で、その後は戻されるという事で猫好きの大家族に引き取られました。その晩帰宅した大黒柱のお父さんは、お母さん猫と仔猫2匹の姿を見て、「親子が離れ離れになるのはいけない!」と言ってお母さん猫もずっと一緒にいさせてもらえることになりました。
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弥勒は、8月の暑い日にやはり仔猫3匹と一緒に捨てられていたところを一緒に土手で保護活動していたHさんに保護されました。
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母猫(弥勒)にごはんをあげても殆ど食べようとせず、それでも必死に仔猫達にミルクを与えようとしていたそうです。栄養状態も悪く、このままでは危険と判断し、弥勒を仔猫達から引き離したと同時に、弥勒は歩くことも立つことも出来なくなり横になったままの状態となりました。悪い栄養状態で強い日差しのために脳に障害が生じたのかもしれないと診断されたそうです。私が弥勒に会った時は、それでもいくらか回復したとのことで、横になったまま頭だけ起こして大きな瞳で私をみつめていました。それから間もなく、弥勒が静かに息を引き取ったとHさんから聞かされました。
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「仔猫殺し」の作家がどれ程の生物の生死を体験し考えてそのような結論を出したのかわかりません。きっと弥勒達のように強い母猫の愛情を知らないのだろうと思い、いつか書こうと思っていたブラピー親子、弥勒親子のことを今回書いてみました。
このブログを書く為、騒動に対する作家の正確なコメントを探していて発見した記事、「子猫殺し」直木賞作家 背景に「日本嫌い」を読んで益々この人の主張が分からなくなりました。
「死から遮断された人々は、死の実感を失ってしまう」
「死の実感は生の実感にも通じている。生と死は、互いの色を際立たせる補色のような関係だ」
って・・・。この人は自分が生を実感するために仔猫を殺しているという事なんでしょうか。
「仔猫殺し」の記事を掲載した日経新聞へは多くの抗議があったと聞きました。確かに、どのような意図と責任を持って掲載したのかは問いたくなります。けれども、私は今回この記事が掲載されて良かったと思います。そうでなければ、この人はこのまま非難されることもなく、仔猫殺しを続けていっただろうと思うからです。フランス領であるタヒチでは、この仔猫殺しは法に触れるとのことで、動物愛護団体が動いているそうです。厳罰に処して、犠牲となる仔猫がこれ以上出ないで欲しいと強く願います。
こんな事をいろいろ考えていたら普通にトイレを済ませてしまい、直後に渡されていた検尿カップに気付いたぼぼ ( ̄▽ ̄;)!!ガーン と 母猫達の強~い愛に ポチっと! →
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